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ジャズの歴史3/元奴隷だった人達が創成したブルースや黒人霊歌 [独断による音楽史]

前回は米国南部ニューオリンズの「奴隷農園の主人」だった多数の「クレオール」と呼ばれた「混血黒人」についてお話しました。

「混血児」が生まれる時点では、主人である白人男性と奴隷であった黒人女性との間で性的暴力があった事は確かですが、当時のニューオリンズが、元フランス領だった事から「フランス式の法律」が適用され、生まれて来た「混血児」に関しては、いわば「白人(当時の概念では白人というよりはカソリック教徒のフランス人=人間)」としての扱いを受けました。

その結果、遺産を引き継いだ「クレオール」達は、代が下がり、農園の繁栄に従って中上流階級の素養と教育を受け、ニューオリンズの市会議員の席の半分を占めるに至ります。

ところが南北戦争の南軍の敗戦により、ニューオリンズにも米国北部の価値観や法律が適用され、「クレオール」は「黒人」という扱いになると共に、巧妙に仕組まれた法律により、議員や銀行家と行った政経の中心から追放されてしまい没落します。

その結果、女性は、今でいう水商売や風俗業を、男性は、没落以前は「フランス式の教育」を受けた事もあり、ピアノやバイオリン等が弾ける人が少なくなく、「売春宿のピアノ弾き」に転じ、男女共、荒稼ぎする人が現れます。悲惨な転落を遂げた人も少なくない筈ですが……・

ところで「売春宿のピアノ弾き」になった「クレオール」達ですが、「ラグタイム」と呼ばれる音楽を創成しますが、最初から「ラグタイム」が弾けた訳でも、最後まで「ラグタイム」ばかりを弾いていた訳でもありません。

状況に応じて当時の流行歌やオペラ等クラシックの有名なメロディー、ポルカやセレナーデ等、要するに「BGM」として使えそうなものはなんでも「即興で編曲」して演奏していた筈です。

その中で当時、流行っていた軍楽隊の音楽である「マーチ」をピアノ編曲して演奏する内、「マーチのピアノ版」とでも呼ぶべきスタイルである「ラグタイム」スタイルが作られました。 

ピアノ発表会の定番でラグタイム名曲の一つ「エンターテイナー」を作曲したスコット・ジョプリンでは「クレオール」ではなく、いわば「ラグタイム」第二世代ともいうべき、元「奴隷黒人」の末裔ですが、「ラグタイム」の音楽スタイルに関しては彼の音楽をイメージすれば良いでしょう。

ところで気になる(笑)、「売春宿のピアノ弾き」のギャラを含めた生活レベルですが、凄腕のラグタイムピアニストともなれば、一晩に今のお金で十万~三十万円くらい稼ぎ、且、その内訳はピアノ演奏に対するチップのみならず、何人か抱えていた女性から貢がれたお金……つまり「ヒモ稼業」…も含まれていた訳で、羨ましいというか(笑)。

尤も、そうやって荒稼ぎしたピアノ弾きも「ラグタイム」のピーク以前に、南部ニューオリンズの水商売~風俗産業の全盛期を過ぎた頃から落ち始め、最後はロクな事にならず自業自得する人生に終わったようです。

尚「クレオール」が創成した「ラグタイム」に対し、奴隷時代に「クレオール」の主人から酷い目にあった元「奴隷」だった人達が創成したのが「ブルース」と「黒人霊歌」です。


今更言うまでもなく悲惨だった「奴隷黒人」の生活ですが、性的暴力の被害も半端でない

或る意味、「クレオール」と反対の立場にあった「奴隷」だった黒人達は、南北戦争後の「奴隷解放令」によって、以前よりは「人権」が保障された生活になったようです。

「奴隷時代」の黒人には「室内奴隷」と呼ばれる召使や料理人等の家の中の仕事をあてがわれた者と、綿花摘みや炭鉱掘り等の屋外労働をあてがわれた「屋外奴隷」と呼ばれた者とがいました。

勿論、「屋内奴隷」の方がマシなのですが、主人から見て「屋内奴隷」への抜擢に際しては、いわゆる「職業適性」と共に「主人に反抗しない」点も重視された筈です。
農園が大きくなるに従い、女性は「屋内労働」に、男性は「屋外労働」に分かれた筈ですが、女性の場合、主人の性暴力を受ける事は珍しくなく、また性暴力を行いやすいように「屋内労働」に配する場合もあったようです。

南部農園の「奴隷」と、刑務所の囚人が異なるのは、奴隷同士で男女の実質的な「結婚」が認められた点です。

尤も「結婚」後に「夫婦」として一緒に生活できる場合もあれが、主人の方針で週末の「通い婚」しか認めない場合もあったようですが、概ね好き合った者同士が「結婚」を願い出れば許されたようです。

それは「結婚」によって「奴隷」が精神的に安定し、労働に励む事が期待できたのと、最も重要な点は、「結婚」即ち「出産」によって生まれた子供は「奴隷」として扱う事ができたからです。

「クレオール」についてお話した祭、「白人主人」と「黒人奴隷」との「混血児」は、主人の側、つまり「白人」扱いされました(何度も書きますが、当時のニューオリンズでは「白人」「黒人」という人種分類ではなく「カソリック教徒」か「それ以外」という分類が重視されました。)

従って「混血児」を「奴隷」として労働に就かせる事は通常ありませんでしたが、「奴隷同士の間に生まれた子供」は心置きなく「奴隷」として扱う事ができました。

当時、「奴隷」の「結婚」は法的なものではなく、事実婚でしかなかったのは、そもそも「奴隷」には「人権」がなく、耕運機や掃除機のような「物」扱いでした。

従って他人が自分の「奴隷」を傷つけた場合は「弁償」を要求する事はあっても、自分が「奴隷」を傷つけようが殺そうが、法的には全く問題がありませんでした。

また「奴隷」として生まれた子供は、そのまま自分が使っても良し、「奴隷市場」で売っても良し、いずれにせよ、「奴隷として生まれる子供」が多いほど、主人には好都合でした。

そして生まれた子供を、主人を「売る」ために奴隷夫婦から取り上げたとしても、夫婦には何ら文句が言えませんでした。

尤も子供を「売り飛ばす」よりも、そのまま「奴隷」として育てる場合が多かったのは、人道的な理由からではなく、「農園の労働者」というのは頭数が多い方が良く、しかも「奴隷」だから賃金を払う必要がない自給自足の生活。

幼児は無理でも、少年の年齢になれば、雑用の一つでもできされば生産性は上がる訳で、奴隷の「家族ぐるみ」で使役させられた訳です。

対して北部が「奴隷廃止」を打ち出せたのも人道的な理由からではなく、例えば「工場労働者」の場合、労働者である男性にのみ賃金を払えば済む、仮に「奴隷制」で家族ぐるみを養う方が効率が悪かったからに過ぎません。

ところで南部の「奴隷農園」ですが、旧フランス領だったニューオリンズ、或いはフランスやスペイン系等の「カトリック教徒」の主人の元では、カトリック教会の方針やフランス式の法律に基づき、「白人主人と黒人奴隷」の間の「混血児」は「白人(=フランス人)」扱いされました。対して英国系の奴隷農園では北部の価値観や法律が適用され「白人主人と黒人奴隷との混血児」は「奴隷」とされました。

恐らく、「奴隷」とされたにせよ、半分は自分の血統が入っている訳で、最も過酷な「屋外労働」ではなく「屋内労働」に従事させるか、逆に早々と「売り飛ばしてしまう」事例も少なくなかったようです。

全く「人権」が認められなかった「奴隷黒人女性」の悲惨さはいうに及びませんが、「主人」の妻である白人女性の精神的な性被害も甚大でした。

キリスト教徒と言いますか「文明人」の常識として「一夫一妻制」であり、夫による妻以外の女性との性交渉は忌まわしいものとされていましたが、相手が「奴隷黒人」であれば、認められてしまう。

例えば、現代の日本で、夫が会社に行けば、部下の女性に対し問答無用で性暴力を行っても許される、被害者は部下の女性のみならず、夫の妻も含まれるといえましょう。

「奴隷農園」を描いた映画で、「悪役」である無慈悲な「白人主人」が登場しますが、或いは、ある奴隷女性には「優しい」主人よりも、夫人の方がギスギスして無慈悲な人に設定されている場合もあります。

これは夫人が「奴隷」に対し残虐な性格であったから、というよりは、夫の「公然となされる浮気」に苦しめられたからでしょう。

「クレオール」が「奴隷黒人」に対し、殊更に残酷だったのは、なまじ親しみを覚え、「クレオール」の息子や娘が「奴隷黒人」とデキてしまい、再度の「クレオール」を生み出す事で、自らの特権が削がれる事を恐れたからです。

という訳で、とにかく悲惨な状況にあったのが「奴隷解放令」発令以前の「奴隷黒人」であった事は確かで、発令後も、実際には他に行くところがなく、そのまま農園に留まった黒人が大多数だった、とはいえ、性暴力についての「人権」の状況が改善されたからです。


黒人音楽が居酒屋と教会で生まれた

奴隷解放令の発令後、それまで「奴隷」だった人達の生活は以前と比較してマシになった筈ですが、例えばロシア革命のように、それまで奴隷だった人達が、主人の財産を横取りして豊かになった、という事は全くなく、「人権」の若干の回復と共に雇用形態が現金あるいは物による「賃金労働」に変わりました。

或いは、「職業選択の自由」が若干広がり、農園から離れ、北部資本で作られた工場に労働者として働きに出る事が可能となります。

その結果、元「奴隷黒人」同士で若干の「貧富の差」が現れ、貧乏な農園で最低賃金で使役されるよりは、マシな賃金が貰える工場で働く方がいい、という人が増えました。

その結果、以前の「奴隷時代」と違い「嫁の来てがない黒人」も現れ、また現金収入を獲た事で、それまでの「自給自足」生活ではなく、今でいう飲食店や衣服や生活品を売る商店が出現し、また、それらを起業できる資本を持てた黒人と、そうでない黒人との間に「貧富の差」が広がります。

「奴隷時代の方が良かった」とは誰も思わないにせよ、「解放後」も新たな悩みが続発し、結局、稼いだ賃金で、今でいう居酒屋に集まって騒いでは憂さ晴らしをする、という「不真面目(?)な生活」に落ちてしまう人も現れます。

その結果、生まれたのが後に「ブルース」という歌手によって歌われた音楽です。

何度か書きましたが「奴隷が綿花摘みの苦しみを歌ったブルースが生まれた」という説は、実はありそうでない話であり、むしろ「奴隷解放後」にこそ「ブルース」が生まれたと考えられます。

当初は今でいう居酒屋で「歌が上手い人」が声を披露する程度だったようですが、段々と「歌手」を職業にする人が現れます。

「ブルース」は確かに「悲しみ」や「怒り」が根底にあるにせよ、いわば大阪の漫才の如く、面白く、皮肉があり、何よりも「芸人」としての力量が必要でした。

果てして、より多くの人から拍手を貰えた人が、より多くの「綿花を摘む苦しみ」を経験したのかどうか不明ですが、「芸人」あるいは演奏家としての「才能」があった事は確かです。後世の人は、やたらと黒人の「苦しみ」について語りたがりますが、「才能」や「努力」について無視したがりますが、より良い「ブルースマン」は「苦しみ」以上に「才能」と「努力」があった、と考えるべきでしょう。

ブルースとラグタイムを禁じたキリスト教会

奴隷解放後、黒人の「人権」が回復すると共に、若干の経済生活と自由が始まりました。
私が「ブルースは綿花摘み作業では生まれない」と想うのは、「苦しみ」や「怒り」を訴える歌なぞ、主人が許す筈がなく、ある程度、自由に表現できるようになったのは、「解放後」だと思えるからです。

それにしても「過激な表現」は不可能だった訳で、大阪の漫才のような、皮相な表現で、泣き笑いを誘った訳です。

ところで、当時の「ブルース」について、「奴隷黒人」の指導者的立場であった「キリスト教会」は、「ブルース」自体も、「居酒屋で乱痴気騒ぎをするような生活」も否定しました。

「クレオール」の所で書きましたように、南部ニューオリンズはフランス領だった事からキリスト教「カトリック」の影響が強く、「カトリック」の基では「クレオール」は「人間=カソリック教徒」扱いでしたが、「奴隷黒人」は人間扱いされませんでした。

従ってカトリック教会が「奴隷黒人」に対しキリスト教を布教する、という事はありませんでしたが、南北戦争の南軍の敗戦後、北部から沢山の「キリスト教プロテスタント教会」が進出し「黒人教会」を多数設立しました。

奴隷解放以前から、地域によっては「キリスト教プロテスタント教会」の勢力が強く、主人共々「奴隷黒人」もプロテスタントに強制的にき入信させられ「黒人教会」に通わされましたが、当時の「黒人教会」が設けられ目的は「正しい奴隷の在り方」を教える為でした。

同時に「黒人教会」内部の進化により、奴隷制度の時代から「黒人の地位向上」という発想と、その指導的立場を担うようになりました。

南北戦争後に、南部にも「キリスト教プロテスタント」の「黒人教会」が設立され、多くの元「奴隷」だった人が教会に通うようになりますが、それは「信仰」目的と共に、「学問」を習得する為でもありました。

「黒人教会」の考え方の基本として「黒人も、しっかりと知性や教養を身に着ければ、白人からも信頼され、やがては同等の人間として扱って貰える」があり、これは一歩間違えると「黒人である事」を止め、「白人」と同化する、という事になります。

尤も当時、明治維新を迎えた日本も、日本の国際的地位を向上させる方法として、日本的なものを排し、只管に欧米の生活スタイルを取り入れたりした訳で、「黒人教会」の考え方が奇妙だった訳ではありません。

ところで「黒人教会」が「黒人の地位向上」の為に、「黒人らしさ」の放棄と共に、勤勉さや清潔さを掲げますが、その真逆に位置したものが「ブルース」や居酒屋でした。

言葉がないので「居酒屋」と書きましたが、当時は飲食だけでなく、売春婦がたむろし、色々な犯罪も行われ、あまり健全な場所ではなかったのと、「ブルース」の本質である「苦しみ」や「怒り」或いは「皮肉」というものは「黒人教会」の基本方針と相容れぬものでした。

もう一つ「黒人教会」が否定した「黒人音楽」が「ラグタイム」でした。

「ラグタイム」が元々「カトリック教徒」である「クレオール(混血黒人)」から生まれた事は問題ではなく、また「ラグタイム第二世代」ともいえる、後世に「ラグタイムの王」と呼ばれたスコット・ジョプリン他は「クレオール」ではなく、「奴隷黒人」家庭の出身です。

「黒人教会」が「ラグタイム」を問題視したのは、「ラグタイム」が元々「売春宿の音楽」として発達した事と、「黒人的」であるからでした。

一方、「黒人教会」が推奨した音楽は「黒人霊歌」でした。

(ジャズの歴史4/黒人霊歌に続く)


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ジャズの歴史2/ラグタイムを創生したクレオール [独断による音楽史]

前回から「ジャズの歴史」と密接な「米国黒人の歴史」についてお話していました。

19世紀半ばの「南北戦争のリンカーン率いる北軍の戦勝により奴隷解放宣言が発令」され、米国には法的にも「奴隷」とされたアフリカ系の人達が多数存在した事は誰でも知っていると思います。

尤も「奴隷解放」以前にも、主人が合法的に「解放」したり、逃亡し、合法的に「自由黒人」と認められた人達がいた事は案外知られていません。「自由黒人」の大多数は米国北部のニューヨークやワシントン等に移住し、教経済的にも社会的にも成功し、高等教育を受ける人もいました。

これらの「知的階級」のシンボルの一つが「キリスト教黒人教会の牧師」さん達でした。

ちなみに、この時点で「黒人教会」を設立したのはキリスト教の「プロテスタント系」で、知的階級のみならず「奴隷黒人」にも多大な布教を展開しました。

「黒人教会」が「奴隷黒人」にも布教したのは、黒人牧師さんの意志もありましょうが、奴隷の主人であった「白人」側の管理方針でもありました。

つまり「キリスト教プロテスタント教会」はうがった見方をすれば黒人に対し「正しい奴隷の生き方」なるもの、つまり主人に反抗せず勤勉に働く等の支配管理する側からは好ましい指針であった訳です。

但し、「プロテスタント教会」の黒人指導者達は、大人しく「支配される」事でも、逆に「反抗する」事でもない別な「黒人の地位向上」として、知性と勤勉さで、白人から「黒人」が「同じ人間である」事を認めさせる、という努力をしました。

半世紀以上後の話になりますが、暗殺された有名なマーチン・ルーサー・キング牧師の考え方は、この「白人に認めて貰う」という事による地位向上にあった、と言えます。

ちなみに、これも前回書きましたが、キング牧師とは一見真反対に見えた同時代の、これも暗殺されたマルカムXはキリスト教自体を否定し、「黒人の宗教」としてイスラム教への回帰と共に、「白人から分離した黒人の国を米国内に作る事」を提唱。その為には暴力も厭わない、という方針でした。

一見すれば「平和的」なキング牧師と、「暴力的」なマルカムXは真反対ですが、実際には夫々の晩年には両者は協調します。要するに「黒人の位置向上=権利の獲得」という「目的」は同じだから、というのと、「キング派とマルカム派とで、黒人同士で紛争する事」こそ、二人の共通の敵ともいえた「米国の支配層」の戦略だと見抜き、敢えてキングとマルカムは協調すると共に、白人に対しても友愛を訴え、多くの白人が二人に賛同したのでした。

そして、それこそが、「米国支配層」の忌避したい所であり、それ故に二人共、暗殺されてしまった訳です。

それはさて置き、「キリスト教プロテスタント教会」が黒人の権利のみならず、知的レベルの向上に貢献した事は疑うべきもない事ですが、キリスト教のもう一方である「カソリック教会」はどうなのか?という話が、次の「南部のクレオール(混血黒人)」に繋がります。

「奴隷農園の主人」だった「混血黒人(クレオール)」

前述のように「奴隷解放令発令」以前の「黒人(アフリカ系米国人)」の全員が「奴隷」だった訳ではなく、北部を中心に「自由黒人」も多数存在しました。

そして「奴隷黒人」とも、そこから何らかの努力で脱出した「自由黒人」とも異なるいわば第三の流れとして「クレオール」と呼ばれる混血の黒人(白人)が南部ニューオリンズには存在しました。

南部ニューオリンズ州は元々フランス領でしたが、19世紀初頭に当時のナポレオン三世が米国に譲渡した事で「アメリカ合衆国」に編入されましたが、編入後もフランスの文化のみならず法律が継承されました。(実は現在でもニューオリンズの公用語は英語とフランス語)

「フランス植民地時代の法律」は、実質的にフランスの国教である「キリスト教カソリック」の価値観に基づく関係で、「奴隷である黒人女性」と「主人である白人男性」の間に生まれた子供は「主人の側」と法的に看做されました。

白人主人と黒人奴隷女性との間に子供ができたのは、例外を除き「恋愛の末、結婚した」という事ではなく性的暴力の末といえましょうが、経緯はともかく、生まれた混血の子供は、法的に「主人の側=「白人」に分類されました。

ちなみに「白人」と書きましたが、「南北戦争」終結後の「奴隷解放令発令」までのニューオリンズの価値観でいえば、「白人」とか「黒人」という分類ではなく、「フランス人の血統」がどうかが重視されました。

要するに「白人」であってもカトリックでない北部の「英国系米国人」は「人種」として下。アフリカ系の血統であるにせよ、片親が「フランス人」ならば「英国系」よりはマシ、という感覚。

実は米国黒人のみならず、アフリカ人をどう扱うのか、については、カトリック教会の総本山であるローマ教会でも議論の的でしたが、アフリカについては「カソリックに入信したアフリカ人は人間扱い」し、そうでないアフリカ人について「人間」ではない。

従って駆り集めて奴隷にしても、牛を集めて牧場を作るのと同じだから構わない、という考え方。

米国ニューオリンズでのカトリック教会については、基本的には「奴隷黒人」には布教しなかったので、したがって「奴隷黒人」は「カトリック教徒」ではないから、どういう扱いがされようが教会は関知しない、という立場でした。

但し、どういう経緯で生まれたにせよ、フランス人やスペイン人等の「カソリック教徒」の血統が半分入った「混血黒人(混血白人というべきか)」に関しては、「人間=カソリック教徒」扱いされました。

この「混血黒人」を「クレオール」と呼びますが、実は映画等の話と異なり、「奴隷農園」は大勢の奴隷を抱えた邸宅に住む主人がいる、という事は例外的で、「貧しくて嫁の来てがない」貧乏白人が、頑張ってお金を貯めて労働力としての奴隷男性と共に、労働力兼オンナとして奴隷女性を購入する、というパターンが殆どでした。

その結果、奴隷女性が実質的「妻」になると共に、二人の間の子供が「跡継ぎ」になるケースは珍しくありませんでした。或いは白人の「本妻」がいるにせよ、奴隷女性との間の「混血児」も何らかの財産を相続する事になります。

その結果、「奴隷農園」の二代目主人は「クレオール(混血黒人)」である場合が少なくなく、また「フランス式の法律」の元では「クレオール」は完全に「白人」というか「人間=カソリック教徒」の扱いを受け、実際、南北戦争終結以前のニューオリンズの市会議員や銀行家の半数が「クレオール」だったと言われています。

南北戦争後の「奴隷解放令」で没落し、「黒人」になった「クレオール」

ところで16世紀以来の南部ニューオリンズの「奴隷農園」は、その半数が「クレオール(混血黒人)」だった主人の元、順調な発展を遂げ、19世紀頃には「クレオール」主人もニューオリンズの「中流」もしくは「上流」階級へと発展しました。

これも蛇足ながら、映画「風と共に去りぬ」はクラーク・ゲイブルとビビアン・リー主演、上流階級の美男美女のお話ですが、私はこれが実話に基づいており、且つ、それは「クレオール」家庭の話ではないか、と憶測してます。

実際、南北戦争の南軍の敗戦により、ニューオリンズにはリンカーンを長とする北軍が占領軍として入って来て、全てを変えてしまいます。

奴隷解放令の発令は、要するに「人件費の高騰」と共に、新しく導入された北部の価値観に基づく法律により「クレオール」は今迄の「フランス人=人間」という身分から、「黒人」という身分に落とされてしまいます。

今でこそ「白人」と「黒人」という「人種」分類で考えますが、南北戦争以前は「フランス人=カトリック教徒=人間」かそうでないか、という価値観で分類され、「クレオール」は「人間」つまり後の「白人」的な身分に分類されていました。

それを失った事で、色々な公職から追放されたり、農園の経営不振から、それまで中流~上流階級だった「クレオール」は没落してしまいます。

その結果、「解放」された元「奴隷黒人」と共に、北部から流入してきた資本による工場に働きに出たりしたようですが、そもそも「クレオール」と「奴隷黒人」は犬猿の仲なんですね。

元は半分「奴隷黒人」の血統だからと言って、「奴隷黒人」に優しくした、なんて事はなく、むしろ、なまじ「白人」の主人より、「クレオール」の主人の方が「奴隷黒人」に対し無慈悲だった、と言われています。

「奴隷農園」を描いて映画では、奴隷に残虐な仕打ちをするのは「白人」と決まっていますが、実際には「クレオール」つまり外見は「ほぼ黒人」か「どことなく黒人」の外見をした人こそ残虐だった訳です。

或いは「クレオール」の子供の結婚に際しては、悪くても「クレオール同士」で、できれば「白人」と結婚し、つまり子供は「ハーフ」だったが、孫は「クオーター」、その子供に至っては「白人」になる場合もあり、遺伝子の関係で、姉は「白人の風貌」だが、弟は「黒人の風貌」という事もままありました。

とは言え外見とは関係なく、或いは「ハーフ」だった代から、「奴隷黒人」とは異なる「人種」とし「クレオール」としての生きてきた訳で、今更「黒人」の中に入って行って生きる、というのは、難しい話でした。

その結果、没落した「クレオール」の女性は今でいう水商売や風俗業を始めました。

これは明治維新や第二次世界大戦後、それまでの大名や華族(元大名他)だった人達が没落し、普通のサラリーマンや公務員に転職した人が多かったが、キャバレーやバンドマンのような水商売に転職したケースが少なくなかったのと同様です。

悲惨な例として、「借金のかたに風俗業に売り飛ばされた」という事例は、明治維新や戦後の日本でもあったのと同様にニューオリンズの「クレオール」にももあった筈ですが、自邸を改装しての「高級売春宿」を開業する人も少なくなかったようです。

と街には北軍の給料をたっぷり貰った羽振りの良い兵隊が溢れており、彼らからすれば「クレオール」は「黒人」というよりは近くに寄れなかった「元上流階級の令室」という感じで、千載一遇のチャンスとばかりに飛びついた訳です。

没落した「クレオール」男性が始めた職が「売春宿のピアノ弾き」=ラグタイムの始まり

没落した「クレオール」女性が水商売や風俗業を始めた影響で、男性が始めた職業の一つが「売春宿」での「ピアノ弾き」。

元々は当時の流行歌やセレナーデやポルカ、マーチ等を弾いていましたが、その内、誰が造り出したのか、今でいう「ラグタイム」スタイルでピアノ演奏を始めた訳ですが、これが大流行。

敗戦前まで中上流階級に属していた「クレオール」は、教育があり、ピアノやバイオリン、フルートやクラリネット等を正式に学んだ人も少なくなく、敗戦までは優雅に当時の新進人気作曲家だったシューマンやブラームスのようなクラシックを楽しんでいた筈です。

ところが敗戦後は、大金をばらまく北軍の兵隊相手にサービスする訳ですから、軍楽隊が演奏する「マーチ」のように曲を随時用い、いわば「マーチ」のピアノ音楽版が「ラグタイム」になった、という所。

ちなみに「ラグタイムは楽譜に書かれた音楽で即興がない」と評する人もいますが、元々、即興的に編曲したり作曲したりしていた訳で、「楽譜」がなくても「ラグタイム」を演奏した筈です。

但し、クレオールの場合、音楽教育を受けていたので楽譜を読んだり、書いたりする技能があり、つまり「出版」して稼ぐという事もできたが故、現在にも「出版されたラグタイム」が遺っている訳です。

蛇足ながら、20世紀半ば以後のクラシック音楽の世界では「作曲家」と「演奏家」が分業しますが、それまではクラシック音楽においても「ピアノが弾ける」=「作曲や即興ができる」が普通でした。

むしろ現代の「楽譜通りには弾けるが作曲や即興はできない」というのは異常。

「文章は読めるが、文章を書けない」なんて人がいないのと同様に「楽譜が読める」=作曲や即興ができるのは普通の話でした。

そういえばショパンの「ワルツ」や「マズルカ」なぞは、やたらと同じメロディーの繰り返しが多いので弾いていた厭きてくる事もありますが、これらの曲は、元々「即興」する事が前提。

つまり同じメロディーを繰り返すのではなく「即興」を加えていた訳。
同じショパンの名曲でも難しい「即興曲」や「練習曲」「夜想曲」等の、音符で埋められている曲は、「ショパンならば、こういう具合に即興する」という見本が書かれている、と考えるべきでしょう。

そんな訳で「クラシック音楽の素養があったクレオール」達はクラシック名曲や流行等を編曲や即興しつつ、「売春宿のピアノ弾き」を稼業として続けた訳です。

そして「クレオール」が音楽教育の素養を活かして「ラグタイム」演奏で稼ぎ始めた頃に生まれたのが、元「奴隷黒人」だった人達によって作られた「ブルース」や「ゴスペル」です。

(ジャズの歴史3につづく)

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ジャズの歴史1/自由黒人と奴隷黒人の話 [独断による音楽史]

皆さん、こんにちわ。「リー・エバンス・メソッド」について書いている筈が、いつのまにか「ジャズ歴史」の話になり、かつ、暫く間があいた事で、前回、何の話をしていたのか忘れてしまいました。

という訳で前回と重複する部分もありますが、再び「ジャズの歴史」として、ジャズの始まりについてお話させて頂きます。

19世紀の米国「自由黒人」とは?

後世に「ジャズ」と呼ばれる音楽スタイルが創成されたのは1920年代当時、米国のジャズ的音楽には二系統あり、一つがニューヨークのような「米国北部スタイル」。

もう一つがニューオリンズのような「米国南部スタイル」でした。

尤も「北部ジャズ」は「南部ジャズ」の影響或いはコピーでできたようです。

というのは、南北戦争の北軍戦勝後に全米で発令された「奴隷解放令」以前から、北部に限らず南部にも「奴隷ではない自由黒人」が存在しました。

この「自由黒人」の末裔が「ジャズの父」と呼ばれたデューク・エリントンですが、エリントンに限らず、北部」の「自由黒人」や「解放奴隷」の末裔が「ジャズの発展」に大きな役割を果たした事は誰ども分かりますが、ジャズの創成期である1920年代頃の北部黒人は、「生まれながらにジャズができた」という訳でなかったようです。

「ジャズ」の源流は、南部で発祥した「ブルース」や「ラグタイム」「黒人のマーチバンド」等にあり、これらが北上する際、中部の都市であるシカゴで3つが融合して「ジャズ」ができた、というのが定説です。

19世紀半ばの「南北戦争」終結により、少なくても法的には「奴隷」はなくなり、全ての黒人が「自由黒人」となった訳ですが、その時代以前、日本の江戸幕末から明治にかけて米国では法律上も「奴隷」「解放奴隷」「自由黒人」等の同じ黒人でも「人権」の具合が全く違う立場が存在しました。

また白人と黒人の混血児に関しても、南部と北部とでは全く異なる「法的立場」になりました。

別に「人種問題」を語りたい訳ではありませんが、「ジャズの歴史」を語る上で「人種問題」は避けて通れないのと、よく本に書いてあるような「綿摘みの奴隷労働の苦しさがブルース」を生んだ、という「伝説」はウソだらけなので、人種問題とからめて、ジャズの源流を作った黒人について、今日はお話をします。

奴隷解放令発令前から存在した「自由黒人」という法的身分

南北戦争終結以前に関して、米国黒人の全てが「奴隷」だった、と思われがちですが、実は白人と同等の権利を有する「自由黒人」という法的身分が存在しました。

完全に「奴隷制度」が敷かれたニューオリンズを始め米国南部の場合、主人が没後に奴隷への感謝として遺言により「解放」した結果「自由黒人」になったり、奴隷自身が貯金して自分を主人から買い取って解放され「自由黒人」になる、という場合はありました。

北部の場合、州によりますが、「奴隷という身分の存在を認めない」為に、その州に奴隷が逃げ込んでしまうと自動的に「自由黒人」になったり、南部の「自由黒人」が移住してきたりで、多くの「自由黒人」が住んていました。

とはいう物の「奴隷解放」を大義名分としてリンカーン大統領率いる北軍、つまり北部にも奴隷は存在しましたし、北軍の将軍にも奴隷を所有し、最後まで解放しなかった人もいました。

どうやら「南北戦争」の際に北軍が掲げた「奴隷解放の為の戦争」は大義名分に過ぎず、リンカーン率いる北軍による南部侵略が「南北戦争」の実態でしょう。

とは言え、北部の「自由黒人」が南北戦争終結以前から、南部の「奴隷黒人」とは比較にならない程にマしな生活を営んでいた事と、教育を受け、音楽に関してはピアノやバイオリンを学んだ人も少なくありませんでした。

では北部の「自由黒人」がピアノやバイオリンで、ブルースやラグタイム等のジャズの源流を演奏できたのか、というえば、それは不可能で、殆どの人はクラシック音楽や当時の米国流行歌を演奏していたようです。

その後、南北戦争に戦勝し、改めて「アメリカ合衆国」として仕切り直した北部政府は、ネイティブアメリカン(インディアン)やハワイアン(ハワイの先住民)等の支配(虐殺によって)成功し、時代が過ぎて
1920年代頃になると第一次世界大戦の戦勝から、米国は世界一繁栄した国となりました。

尤も軍需産業でバブルを迎えた北部と異なり、南部は農業不況もあり経済崩壊、その結果、大量の「黒人」が南部を脱出し、「民族大移動」ともいえる北上を始めました。

前述のように北部に元々住んでいた「黒人」は、「黒人だから」という理由だけで自然にジャズの源流であるラグタイムやブルースが弾けた訳では全くありませんでしだか、南部から流入してきた黒人や黒人文化の影響によって、ラグタイムやブルース等を「知る」事ができます。

いわば中国から入ってきた「中華そば」が日本的洗練で「日本のラーメン」になった如く、「南部の黒人音楽=いわば中華そば」が「日本のラーメン」へと変化あるいは進化したように「北部ジャズ」が造られます。

また「北部ジャズ」を作ったのは黒人だけではなく、ガーシュインやコール・ポーター等の北部のユダヤ系白人が多く関わりりますが、1920年代の米国人の感覚ではユダヤ人というのは、厳密な意味では「白人」ではありませんが、少なくとも音楽のような芸能界においては「白人」として支配層に属しました。

それはともかく、元々はローカルな「黒人音楽」だったジャズやその源流のラグタイムやブルース等は、北部でよきも悪しきも発展し、商業音楽の中心となり、南部にも逆輸出されただけでなく、世界中で大流行します。
「ニューオリンズ・ジャズ」はニューオリンズではなくシカゴで生まれた

ところで「北部ジャズ」の元になった「南部のジャズ」ですが、シンプルにいえば「南部のジャズ」とは「ニューオリンズ・ジャズ」を意味します。

この「ニューオリンズ・ジャズ」ですが、名前から察して「ニューオリンズで生まれた」と勘違いしている人が多いのですが、実際には南部ニューオリンズではなく、中部の都市シカゴで生まれました。

前述の1920年代の南部大不況による南部黒人の北部への「民族大移動」に際しては、北部のニューヨークは遠すぎました。

そこで中部の大都市シカゴで一休みしたり定住する黒人が大勢いましたが、彼らによって作られたのが「ニューオリンズ・ジャズ」なのです。

「シカゴで生まれたのだからシカゴ・ジャズ」と呼ぶべきではないか、と思われるかも知れませんが、実は「シカゴ・ジャズ」というスタイルも存在します。

これは元からシカゴによって住んでいた主に「白人」によって生まれた、といいますか「ニューオリンズから来た黒人のジャズ」を真似した音楽を指します。別名「ディキーランド・ジャズ」とも呼びます。

同じくシカゴで生まれた音楽だが、「ニューオリンズから来た黒人」が演奏すれば「ニューオリンズ・ジャズ」で、シカゴで生まれた白人や黒人が演奏すれば「ディキシーランド・ジャズ」と呼ぶのは、今ならば「差別!」という事になりましょうが、当時は通った話、というか、そもそも「ニューオリンズ・ジャズ」とか「ディキシーランド・ジャズ」とか分けていたのかどうも定かではありません。

これは蛇足になりますが、日本人で「ニューオリンズ・ジャズ」を愛好し、自分でも「ニューオリンズ・ジャズ」のプロアマ・ミュージシャンを名乗る人は少なくありませんが、名前の本来の主旨からすれば、いくら「ニューオリンズ・ジャズ」が好きで、研究しようとも、それは「ニューオリンズ・ジャズ」とは呼べません。

あくまで「ディキシーランド・ジャズ」なのですが、「ディキシーランドジャズの真似」をした訳でなく、「ニューオリンズ・ジャズの真似」をしたから、自分がやっているのは「ニューオリンズ・ジャズ」だ、といいたい気持ちは解る…。

「ブルース」と「ラグタイム」とでは同じアフリカ系米国人ながら「人種」が違った

ところで「ニューオリンズ・ジャズ」を創生した「南部から来た黒人」達ですが、これは1種類でなく、大別した2種類の「黒人」つまり「元奴隷黒人」と「元は混血黒人(クレオール)と呼ばれた人」がありました。

この辺りの話は、「米国黒人歴史のタブー」として、白人黒人双方から「なかった事」にしたい史実ですが、南部ニューオリンズには、「綿花摘みの苦しさからブルースを作った」という「伝説」となる「奴隷黒人」と共に、北部の「自由黒人」とは異なる「クレオール」と呼ばれる混血の黒人或いは白人が存在しました。

(ジャズの歴史2に続く)
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ラグタイムは「即興がない楽譜に書かれた音楽」はウソ?2 [独断による音楽史]

没落クレオール、女性は売春婦、男性は売春宿のピアノ弾きに

前回、日本では馴染のない「クレオール(混血黒人)」についてお話しました。

白人と黒人の混血が存在する事は想像できますが、キリスト教カソリックに基ずくフランス式法律が施行されていた米国南部ニューオリンズでは、「奴隷の黒人女性」と「主人の白人男性」との間に生まれた混血児は、主人の側、つまり「白人」身分となります。

そして混血児「クレオール」は、父親の財産を相続し、「奴隷農園」の主人となりましたが、奴隷に対する扱いは、なまじ白人主人よりも酷く、また結婚に際しては、悪くて同じ「クレオール」、できれば「白人」との結婚を望み、三代も経て四分の一黒人という事になりました。

カソリック教会による「奴隷黒人」に対する積極的な布教はなく、要するに教会としては、「奴隷黒人」は「人間」として認めなかった反面、「クレオール」については「フランス系のカソリック教徒」として分け隔てなく扱われました。

また代を重ねるに連れ、「クレオール」が主人である「奴隷農園」も発展し、やがてニューオリンズの市会議員や銀行家となり、南北戦争時分には、ニューオリンズの市会議員や銀行家の半数が「クレオール」が占めていました。

問題は「南北戦争」後ですが、「奴隷解放」令により、「クレオール」が運営する農園も経営難に陥ったのと、「奴隷解放令」と共に南部で施行された「人種分離令」により、 「白人」と「黒人」が同じ場所で働けなくなります。

「南北戦争」敗戦まで、南部ニューオリンズの「クレオール」は、自分が「黒人」だという意識がなく、また法的には、社会的にも「黒人=奴隷」ではなかったのですが、リンカーン率いる北軍の勝利の後に施行された法律により「クレオール」は「黒人」という扱いになります。

実は南北戦争終結後に乗り込んできた北部人達が最初にやった事が、ニューオリンズの権力者達を、「白人」と「黒人」とに分離する事で、北軍への反乱勢力を弱らせ、また南部「白人」を北部勢力に取り込む事でした。

また北軍の方針として、南部の綿花農業を弱体化し、英国が植民地であるインドで生産した安い綿の輸入を促進する事による商業利益を上げる、という事もあり、その方法として「奴隷解放」もあり、特に「クレオール」の奴隷農園は崩壊していきます。

要するに「南北戦争」の敗戦により「クレオール」は没落する訳ですが、没落した「クレオール」達はどうしたのか?

軽蔑していた元奴隷黒人と共に、北部資本で作られた工場に働きに出る者も少なくありませんでしたが、いっそ「売春宿」を営む「クレオール」も少なくありませんでした。

と言っても、当時の記録によれば「クレオール」の大部分が悪くても中流階級で、上流階級も少なくなく、北部から乗り込んできた兵隊や商人達には「高嶺の花」が自由にできて良かった、みたいな逸話があります。

女性が売春婦ならば、男性が就いたのが「売春宿のピアノ弾き」でした。

南北戦争以前の「クレオール」は、確かに「奴隷である黒人女性」と「主人である白人男性」との間の、性的搾取によって生まれた混血児でしたが、主人の側で育てられ、その際に「フランス人としての教育」を受けました。

代を経て財力を増した「クレオール」の子弟の中には「本国」フランスに留学する者もあり、フランス的な中流~上流の教養を身につけた訳で、当然、音楽を習得する者も少なくありませんでした。

勿論、習得するのは「黒人音楽」ではなく、ヨーロッパのクラシック音楽だったのと、基本的に室内で演奏するピアノ、バイオリン、フルート、クラリネット等の「室内楽器」でした。

後にニューオリンズで「ジャズ」として合体する元奴隷黒人による「ブルース」はバンジョーや歌、「マーチバンド」は屋外用のトランペット等の屋外楽器だったのに対し、「クレオール」の音楽はピアノやバイオリンと言った室内楽器だったのとは対照的です。

ところで「売春宿」の音楽ですが、金管楽器による「マーチバンド」は音量が大き過ぎ、「クレオール」のピアノ弾きによる演奏が丁度良い訳ですが、後に「ラグタイム」と呼ばれるスタイルだけではなく、ワルツやポルカ、セレナーデ等「売春宿のBGM」に相応しい音楽はなんでも演奏したようです。

ピアノで演奏した「マーチ」=「ラグタイム」

ところで「ラグタイム」ですが、後に「ラグタイムの王」と呼ばれた「スコット・ジョプリン」が作曲した「ラグタイム」数々の名曲が有名ですが、本来は「マーチ」でした。

「南北戦争」の際に、南軍、北軍共に軍楽隊が「マーチ」を演奏しましたが、「ラグタイム」と同じころに「マーチの王」である「スーザ」の「マーチ」の数々の名曲が流行します。

かと言って、軍楽隊率いる「マーチ」はどこでも聴ける訳でなく、ピアノ編曲したものが家庭やバー、売春宿で演奏され、それが発展し、「ラグタイム」と呼ばれるピアノを中心とするスタイルが造られました。

「ラグタイム」は即興がない「楽譜に書かれた音楽」だ、というウソ

「クレオール」によって始められた「ラグタイム」ですが、「売春宿のピアノ弾き」という裏ぶれたイメージはさて置き、ある程度以上の能力を持つ人は、極めて稼いでいた、といいます。

具体的な数字は忘れましたが、当時、上等にスーツを仕立てられるくらいのチップを毎日稼いでいた、といいます。要するに日給十万円位あったり、或いは何人かの売主婦のヒモになったりで、稼ぎはあったが自堕落な生活を送り、やがて人生を崩壊させてしまうような人も少なくなかったようです。

前述の「ラグタイムの王」と呼ばれた「スコット・ジョプリン」は性病には苦しめられましたが、むしろ「豊かではないが温かい家庭」を持ち、また終始勤勉に音楽に勤しみましたが、ジョプリンは「クレオール」ではなく、元奴隷の家系。

後述しますが、ニューオリンズのような元フランス領では、キリスト教カソリックに基づくフランス式の文化や法律が用いられ、黒人女性と白人男性との間の生まれた混血児は「白人=フランス人」として育てられましたが、英国系或いはキリスト教プロテスタントが支配した地域では、混血児は「黒人」として扱われました。

その代わり、プロテスタント教会は、早くから奴隷黒人へのキリスト教布教もしくは強制を行い、多くの奴隷黒人が「黒人教会」に通いました。

カソリックの場合、そもそも奴隷黒人が教会に入る事を禁止、或いは消極的だったのに対し、プロテスタントは積極的に「黒人教会」に取り込みます。

これはプロテスタントの方が「人類愛」に燃えていたからでは全くなく、「黒人教会」とは「奴隷としての正しい生き方」を学ぶ場であった訳です。

但し、当の「黒人教会」の黒人牧師は、単に「奴隷」の身分に留まらず、白人と同等の扱いを受けるべく、黒人への啓蒙を行いました。と言っても「革命」を起こして権利を得る、というものではなく、「勤勉」に学び、働き、白人に認めて貰う、という穏健な考え方でした。

実は「ラグタイム」はカソリック、プロテスタントの両方から嫌われた音楽でしたが、それでも「プロテスタント教会」の黒人牧師であった父親に影響か、スコット・ジョプリンは終生勤勉に励みます。

「努力によって人生を切り開く」という事をジョプリンは実践した訳ですが、対してカソリックに属した「クレオール」の場合、そもそも「白人主人によるお手付き」という暴力が結果として幸運を招き鳥い身分から脱却した他、結婚に際しても「クレオールでも構わないから結婚してくれる白人」を探した結果、いまでいう「ニート」のようなだらしない白人を配偶者に迎える事例が少なからずありました。

要するに「努力で人生を切り開く=プロテスタント」と、「幸運が舞い降りて成功する=カソリック」が変な形で奴隷黒人やクレオールに関わった訳ですが、クレオールは基本的に「棚ボタで成功した怠け者」の血統ですが、案外、音楽的才能がある場合もあり、後に「ニューオリンズ・ジャズ」を創生するシドニー・ベシェやジェリー・ロール・モートンといった「天才」を生み出します。

つづく


















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ラグタイムは「即興がない楽譜に書かれた音楽」はウソ?1 [独断による音楽史]

米国の「ジャズピアノ教材」である「リー・エバンス教材」についてお話をしている所でした。

日本では「初心者用のジャズ教材」といえば、例えば「ビル・エバンスの名演」レコードから「ワルツ・フォー・デビュー」あたりをコピーし、簡単に、といいますか安易な編曲をしたものを弾かせる、とかの「なんちゃってジャズ」が少なくありません。

対して米国の場合、「ジャズの基礎」として「1920年代の初期ジャズ」やそれ以前の「ジャズの源流」であるブルースやラグタイム等の音楽を学ばせる事が「教育の場」では多いようです。

尤も日本人に限らず米国人も「1920年代のジャズやそれ以前」については知らなかったり、音楽スタイルや歴史を正しく理解していない人が大多数なので、「ジャズの歴史」本が多数出版されています。

僕も興味があり、「ラグタイム」と呼ばれる「19世紀末から20世紀初頭に流行したジャズの源流の一つ」について研究しましたが、色々と調べる内に、「ジャズの歴史」本の多くが、同じ元ネタ本から書かれており、且つ元ネタ本自体が間違っているので、あまり信頼できないな、と分かりました。

「ジャズの歴史」について考える場合、どうしても「米国黒人の歴史」について知る必要がありますが、そもそも「米国黒人の歴史」或いは「米国史」自体が偏重あるいは大雑把に割り切られており、「ジャズの歴史」について考える場合に誤ってしまう、という事も分かりました。

…いわく「南部の奴隷農園での綿花摘み労働の苦しさがブルースを生んだ」→そもそも奴隷制時代には「ブルース」は存在せず、「奴隷解放後」に生まれた新しい職業である「芸人」によって徐々に「ブルース」が形成された。

…いわく「黒人奴隷と白人の奴隷農園主」→実は南北戦争時には、「奴隷農園」の主人の半数が「黒人」でした。

…いわく「南北戦争は、奴隷解放を掲げたリンカーン大統領率いる北軍による正義の闘いだ」→北軍の将軍には奴隷を所有し、最後まで解放しなかった者が少なくなく、また、南北戦争後には、ネイティブアメリカン(いわゆるインディアン)の大量虐殺を行った。

等々学校で習った「米国史」とは、かなり異なる事実があり、それを前提に「ジャズの歴史」を考えないと間違ってしまう分が多々ある訳です。

という訳で「間違いだらけ(笑)の米国史」の指摘しつつ、が、「ジャズの源流」の一つである「ラグタイム」について、今日は考えてみたいと思います。

そもそも「ニューオリンズ・ジャズ」はニューオリンズで生まれていない!

「ジャズ」が生まれたのは1920年代頃だと言われていますが、当時の「ジャズ」には「北部ニューヨークのジャズ」と「南部ニューオリンズジャズ」の二つの流れがありました。

厳密にいえば「南部ニューオリンズ」を基に、それまで「ジャズ」を聴いた事がなかった人達が作ったのが「北部ジャズ」な訳で、やはり「南部ニューオリンズ」こそ「ジャズの源流」と言えましょう。

但し、勘違いされる事が多いのですが、「ニューオリンズ」自体には「ジャズ」はなく、ニューオリンズ出身の黒人音楽家で、米国中部の都市「シカゴ」で作り上げたのが「ニューオリンズ・ジャズ」だった訳です。

蛇足ながら「シカゴ・ジャズ」というスタイルもありますが、これは「ニューオリンズ出身の黒人」の音楽を聴いて、主に白人が真似して作られた音楽で、その一人として「ベニー・グッドマン」がいます。

ベニー・グッドマンは厳密には「ユダヤ系(白人と看做されない場合がある)」ですが、白黒大別すれば「白人」である音楽家ですが、ベニー・グッドマンこそ後世1930年代の「スウィングジャズの王様」と呼ばれた偉人で、マイルス・デイヴィスのような黒人ジャズメンもグッドマンの影響を受けています。

別に「白人」の肩を持つ訳ではありませんが、黒人が造り、白人が発展させて新しい音楽を作り、それを基調に黒人が新しい音楽を作り、更に白人が発展させる、というのがジャズに限らず米国音楽の毎度のパターンです。

ところで1920年代の中部の都市シカゴが創成された「ニューオリンズ・ジャズ」ですが、19世紀末に南部ニューオリンズで生まれた「ラグタイム」「ブルース」「マーチバンド」等の「黒人音楽」が融合されて出来た、とも言われています。

「ブルース」に関しては、前回、南北戦争後の「奴隷解放」により「奴隷」から「賃金労働者」になった元奴隷黒人向けの酒場等で、最初はアマチュア、やがてセミプロ~プロになった「歌手」或いは「芸人」によって歌われた音楽である、とお話しました。

では「ラグタイム」はどうなのか?

これは「クレオール(混血黒人)」と呼ばれる「黒人」について知る必要がありますので、今から、お話しましょう。

「クレオール」の没落が「ラグタイム」を生んだ?

16~19世紀半ば(日本の幕末)の米国では「奴隷制度」があり、アフリカから拉致されてきた人々が「奴隷」として人権のない生活を強いられた事は多くの人が知るところです。

それ故に「奴隷黒人の苦しみがブルースを生んだ」という短絡的な発想が生まれた訳ですが、ややこしいのは全ての黒人が「奴隷」だった訳ではない、という事実です。

「奴隷」ではなくなった人達は「解放奴隷」或いは「自由黒人」と呼ばれましたが、これは元主人による公式の手続きを経ての立場であり、当然、自立する為の何らかの職業を持ちました。

もう一つが「奴隷黒人女性」と「白人の主人」との間にできた「混血児」です。

これは日本ではあまり知られていない事実ですが、ニューオリンズは、19世紀初頭までフランス領でしたが、ナポレオン三世によって米国に譲渡されました。

しかしフランス領時代の文化のみならず「法律」もフランス時代のものが維持されました。実はフランスには「奴隷制度」はなく、ニューオリンズ経済を支えた「奴隷制度による農園」とは矛盾しますが、
それはさて置き、元フランス領や元スペイン領での「奴隷制度」には特殊な規則がありました。

これはフランスやスペインの実質的国教であるキリスト教カソリックの影響で、「奴隷黒人女性」と「白人主人」との間に生まれた「混血児=クレオール」は、主人の側、つまり「白人」という扱いを受けます。

厳密にいえば、フランスやスペインのカソリック文化や法律の元では、そもそも「白人」や「黒人」という概念はなく、「フランス人(或いはスペイン人)」か「異教徒」という区分けしかありませんでした。

つまりアフリカ人の血統だろうが「カソリック教徒のフランス人」ならば良くて、プロテスタントの英国人やアフリかのブードー教徒なぞは「人ではない」という扱いだった訳です。

そして、これも勘違いされる事が多いのですが、「奴隷制度」が存在した三百年間、ローマ・カトリック教会は積極的にはアフリカ人やアフリカ系米国人(黒人)に布教をしませんでした。

なぜならば「カソリックに入信」した時点で「人間」扱いが必要となり、必然的に「奴隷制度」が成り立たなくなります。

話は逸れますが、中世戦国時代、スペインによって日本にもキリスト教カソリックがもたらされ、熱心な「キリシタン大名」の後押しもあり、四人の日本人キリスト教徒の少年がはるばるローマやスペインを訪れます。

その際、ローマやスペインで少年達は異例の歓待を受けたそうですが、反面、ローマ教会は「キリスト教徒でない」日本人を「奴隷」として「購入」し、フィリピン等に連れ去ります。

その事についてローマ教会の「非道」を謗る日本人は少なくありませんが、そもそも、当時、日本では「奴隷制度」があり、それは米国のと違い世襲の身分ではなく、戦に負けた地域の婦女子だったり農民だったりしました。

更に時代を遡り鎌倉時代になれば、世襲の「身分」として「奴隷」があり、例えば四天王寺等の仏教寺院でも「奴隷」が使われた訳で、格別、ローマ教会が非道だった訳ではなく、日本に来たスペイン人達は日本の産物の一種として日本人奴隷を「購入」したのでしょう。

反面、カソリックに帰依した日本人は「キリスト教徒」つまり「人間」扱いを受けた訳ですが、話を「混血黒人=クレオール」に戻せば、彼らも「人間」つまり「フランス人」としての扱いを受けました。

ここは微妙な所ですが、日本だと徳川将軍や大名の子供を産んだお女中は、子供の母親として、俄かに高い身分が与えられるのですが、フランスやスペインの場合、「混血児」こそは「フランス人=人間」扱いされるも、母親である奴隷黒人女性は、相変わらず「奴隷」身分のままでした。

ここは更に微妙な話ですが、「奴隷農園」といえば、映画に出て来るような「白亜のお屋敷」と沢山の奴隷達が働く農園というイメージですが、そういう「大農園」は例外で、大部分の「奴隷農園」は、主人一人、奴隷一人を最低限に、精々、主人の家族と奴隷の一家族という構成だったようです。

案外に多かった事例として、「嫁の来てがない貧乏白人」が漸く労働力としての男性奴隷と共に、実質的な「嫁さん」を兼ねた女性奴隷を購入し、その女性との間に、合意或いは強制によって子供を作る、というパターンでした。

その場合に、全く不本意な暴力的な性被害もあれば、ある程度「合意」したような関係もあった筈で、法的身分は「女性奴隷」だが、実質的夫人に収まる、というケースも皆無ではなかったようです。いずれにせよ、経緯が残酷なので認められませんが…

「混血児=クレオール」の母親である奴隷女性の待遇については不明ですが、「混血児」自身は少なくとも法的には「奴隷」ではなく、「フランス人」としての法的身分を獲ました。

勿論、映画に出て来るような沢山の奴隷が労働する「白亜のお屋敷」の場合、いくら法的には「フランス人」だと言っても、主人の奥方には受け入れられるはずがなく、精々、召使頭等の「奴隷ではない使用人」に加えられました。

対して大多数の「貧乏農園」では、混血児が「跡取り息子」として育てられ、実際に主人亡き後、農園を相続し、或いは商工業に転じる場合もありましたが、前述の如く、ニューオリンズでは厳として「奴隷制度」が存在した反面、「混血児=クレオール」は「フランス人」として生活し、実際、南北戦争時分のニューオリンズの市会議員や銀行家の半分は「混血児」で占められました。

また南北戦争にも「南軍」の立場で参加。

問題は「奴隷農園の主人」としての「混血児=クレオール」の立場で、奴隷達に対する扱いが、なまじの「白人」よりも厳しく、冷たいものだった、と言われています。

「混血児」男性主人と、「奴隷女性」との交流はよきも悪しきも皆無に等しく、結婚に際しては、悪くて「混血児」同士、できれば「白人」と結婚し、代が下がるに従い「白人」になっていきました。

だから米国「白人」の中には、先祖に黒人やインディアンの血統が混じっている事例が少なくない、とも言われています。

ところで、この「混血児(以下クレオール)」と「ラグタイム」との関係ですが、これも、なかなか、ややこしいカラみがあります。

つづく


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ブルースとゴスペル、ラグタイムの関係 [独断による音楽史]

こんにちは。クラシックとジャズのピアノが学べるメソッドとして「リー・エバンス」と共に「ギロック」や「バスティン」等についてお話している所でした。

日本では「ジャズ=モダンジャズ」だが、だからと言って「なんちゃってジャズ」はダメ

何度も書いていますが、日本では「ジャズ=1950〜60年代のモダンジャズのセッション」という固定観念があります。

だから多くの「ジャズピアノ教室」では「初歩用教材」として「ウィントン・ケリー/枯葉」や「ビル・エバンス/ワルツ・フォー・デビュー」みたいな「モダンジャズのピアノ名演奏」を、適当に編曲した「なんちゃってジャズ」的教材を用います。

対して欧米では、そもそも「ジャズ」は「モダンジャズ」とは限らず、一昔古い「スウィング・ジャズ」や更に古い「ニューオリンズ・ジャズ」も含まれます。

また「ジャズ教育の場」では「初歩用教材」として日本によくある「なんちゃってモダンジャズ」ではなく、古い時代のジャズや、ジャズ以前の音楽である「ラグタイム」や「ブルース」等を学ぶ事が「基礎」だという考え方が広くあります。

「ジャズの基礎」=「1920年代の初期ジャズとジャズ源流」が世界の標準

そんな訳で、「ギロック」も「リー・エバンス」「バスティン」も「なんちゃってジャズ」ではなく、欧米での「ジャズ教育」での「初級用」としては、1920年代頃の「初期ジャズ」やそれ以前の「ジャズの源流」を学びます。

但し、「南部/ニューオリンズジャズのギロック」と「北部ニューヨークジャズのリー・エバンス」ではスタイルが異なります。

本来、米国大手レコード会社のディレクターや編曲家、スタジオミュージシャンだったリー・エバンス先生の場合、最終的に先生ご自身の音楽スタイルである「1960~70年代のイージーリスニング・ジャズ」にたどり着くに対し、教育専業のギロック先生やお弟子さん達は「1920年代のニューオリンズジャズ」に留まるか、今風の「ヒーリング音楽」に傾きます。

僕自身は、なんやかんや言っても「モダンジャズ」が自分の音楽基盤になっているので、敢えて「リー・エバンス」と「ギロック」を二者択一すれば「1920年代ジャズから始まって、やがて1960年代のモダンジャズにたどり着くリー・エバンス」を選択します。

しかし、「南部ジャズ」が北上して「北部ジャズ」を作った訳で、「南部ジャズ」の「ギロック」を学ぶことは、より「源流」=「ジャズの基礎」に遡っている、と言えるでしょう。また「南部ジャズとその源流」である「ニューオリンズジャズ」「ラグタイム」「ブルース」のみ習得できれば、それだけで充分「楽しい音楽ライフ」が得られます。

という訳で前置きが長くなりましたが、今回も「ギロック」の「南部ジャズ」について突っ込んでお話します。


ジャズの源流=「ブルース」「ラグタイム」「マーチ」「ゴスペル」

前回は「ブルース」にまつわる通説である「ブルースは奴隷であった黒人が、綿摘み作業の苦しみによって作り上げた」を否定すると共に、「ブルース」の発祥は、奴隷解放後の「黒人向け酒場」のエンタティメントとして始まった、という事をお話しました。

南北戦争に南軍が敗北した事で、全米で「奴隷解放令」が発令され、それまで「奴隷」だった人達が「解放」された訳ですが、実際には相変わらず農園や女中として働くせよ、進出したきた北部資本の工場で働くにせよ、「賃金労働者」とは名ばかりの扱いだったようです。

それでも以前に比べれば「人権」がある程度は保障されたり、能力があれば「賃金労働」で稼げた訳で、遥かにマシな生活になった事で、解放された「元奴隷」黒人用の商店や酒場が作られました。

酒場と言っても、現在の感覚のバーや居酒屋ではなく、食事もできれば、酒も飲める、生活用品も売られている、或いは売春目当ての女性も集まる、という雑多な空間だった筈で、そこでの歌われた音楽がやがて発展し、職業ミュージシャンによって演奏され、歌われたのが「ブルース」です。

当初は「ブルース」に定まった形式はありませんでしたが、「向こうの店でウケた」フレーズやコード進行なぞが伝わり、やがて「ブルース」形式が定まりましたが、歌詞については「誰かが作詞した」のを歌う、というよりは、即興或いは事前に用意した歌詞を歌う、という感じ。

つまり日本の「俳句」や「連歌」のようなもので、だった訳で、他愛ない恋愛話もあれば、生活や労働の苦しさ、政治批判等なんでも歌い、昔の「お笑いの吉本」のような猥雑な雰囲気で、ヤジられたり、共感されたりした筈です。

ここで認識するべきは、全ての「解放された黒人」が酒場で「ブルース」を歌ったり、聴いて楽しんだりした訳ではない、という点です。

「酒場に行くほどの収入がなかった」という経済事情はさて置き、積極的な理由から「ブルースの酒場」に行かなかった黒人がいます。

大雑把に言えば、「ゴスペル」や「ラグタイム」に親しむ黒人は「ブルース」とは距離を置きました。

今でこそ、「ギロック」が「健康的な音楽」の一つとして「ブルース」曲を教材に含めていますが、当時は白人は元から、黒人全てに受け入れられた訳ではありませんでした。


「ブルース」と対立(?)した「ゴスペル」や「ラグタイム」


日本では一人の歌手が躊躇いなく「ブルース」と「ゴスペル」の両方を歌いますが、これは「ブルース」「ゴスペル」の意義を理解していなから、という理由もありますが、かの淡谷のり子氏の「ブルース」の如く、「ブルース」が本来とは離れて日本に普及した、という経緯も無関係ではありません。

また前述の如く、白人中産階級であるギロック先生以下が「ブルース」を作曲するのは、「ブルース」が「黒人の喜怒哀楽を現わす流行歌」という在り方を離れ、「米国の音楽形式の一つ」に変化しているからでしょう。

とは言え、実際に「ゴスペル歌手」が「ブルース」を歌う事はないようです。

というのは大雑把に言えば「ゴスペル」とは前述のように「キリスト教プロテスタントの福音派(ゴスペル)教会の宗教音楽」であるのに対し、「ブルース」は良くて「世俗音楽」下手すると「キリスト教を否定した生き方のメッセージ」であったからです。

また「ラグタイム」については、これも大雑把にいえば「奴隷」ではなかった黒人を中心に生まれた音楽であり、キリスト教を否定も賛美もしないが、「ブルース」とは「人種」が違う、という立場でした。

次回に続く

大阪梅田芸術劇場北向い Kimball Piano Salon音楽教室講師 藤井一成
http://www.eonet.ne.jp/~pianosalon/Kimball_Piano_Salon
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ブルースは綿花労働の苦しみを歌った説はウソ [独断による音楽史]

「ピアノ入門~中級」用メソッドとして大人気の「ギロック」のジャズである「ニューオリンズ」スタイルについてお話している所でした。

前回のお話は、「ギロック・ジャズ」の原典である「ニューオリンズ・ジャズ」の発祥は、ニューオリンズではなく、「ニューオリンズの黒人ミュージシャンが中西部の都市シカゴに移住」して生まれた事。

シカゴ移住以前は相いれなかった「ブルース」「ラグタイム」「マーチバンド」の音楽或いはミュージシャンが、シカゴでは交流して生まれたのが「ニューオリンズ・ジャズ」である事。

「ブルース」とは「黒人奴隷が綿花畑での労働の苦しみを歌った」という通説はウソであり、実際には、南北戦争後、解放され、賃金労働者になって元黒人奴隷体達が集まる「酒場」で歌われた「他愛のない男女の恋愛話し」から「政治的な話」等の歌が元になっている事。

また「ブルース」という音楽形式と、職業ミュージシャンとしてブルース奏者が確立されたのは、「吉本芸人」のような部隊経験の積み重ねによってでした。

また、今日「ブルースのフレーズや音感」として認識されるものの大多数は、黒人のみならず白人も含め「職業ミュージシャン」による定型化と洗練を経ており、端的にはジャズ同様「クラシック音楽の一種」と言える程の「西洋音楽化」がなされたからこそ、日本人も真似できる訳です。

とはいえ、「米国黒人」の存在なしに、「ブルース」は生まれなかった事は確かですが、問題は「米国黒人とは何か?」についての理解が、日本人は元より、米国人自身にも乏しい、という点にあります。

アフリカ系米国人は「一つの人種」ではない、からこそ、ブルースやジャズが生まれた

僕達日本人が、欧米に住んだ場合に困惑するのは「日本人」という立場よりも「アジア人」という「人種」にまとめられてしまう点でしょう。

日本人と、韓国人と、中国人としでは、言語も違えば、文化も違いますが、一緒くたにされてしまい困るのは、例えばパーティーで、朝鮮語や中国語でスピーチされてもチンプンカンプンであり、或いは「歓迎」の意味で韓国朝鮮の伝統音楽を聴かされても、特に嬉しいとは思わない等です。

同じように「アフリカ人」と一括りにしても、部族が異なれば、日本語と中国語くらい異なるから、互いに会話は不可能であり、「アフリカ音楽」と言っても、言語同様に異なるから、一緒に歌う、という事は不可能だそうです。

蛇足ながら、僕は数年ほど台湾に住んでいた経験から、僅かに中国語が話せるのと、「香港ポップス」にも関わったから、その頃の「香港ポップス」には割合に詳しい訳ですが、逆に日本の歌謡曲やポップス、アニメや映画等は、台湾、韓国、中国、フィリピン等に進出し、親しまれているそうです。

僕は興味はありませんが「韓国ポップス」は日本にも熱心なファンがいると聞きます。まぁ、その原型は「日本のポップス」ではないか、という話はさて置き、本来は異なる文化圏であった「アジア」も、次第に交流し、特にインターネットの普及により、「文化の融合」が行われています。

僕の子供の頃(1970年代)は、東京からの転校生が、僕が通う大阪の小中学校に来ると、とにかく「言葉が違う」事に驚いたし、東京どころか、お隣の京都や神戸の人の言葉も、大阪と違う事に驚きました。

僕自身は、未だに「大阪弁」でないと、どうも感情と言葉が一致しないから、「大阪弁」の人との会話が最も気楽ですが、僕のスタッフは、非「大阪弁」出身者か、そもそも日本語が喋れない人だったりするので、「大阪弁で捲し立てる」なんて事をやるとコミュニケーションに支障がでるので、なんとか「標準語」に近い言語を使用する事になります。

同じ事が米国の農園に集められたアフリカ人にも行われ、それぞれの部族の言葉ではなく、「標準語」である英語を用いた訳ですが、現代に生きる僕が、中国人や韓国人と会話する際も、向こうが日本語に堪能な場合を除き、「英語が共通言語」になります。

更に言えば、相手が東アジア、或いは東南アジア人であろうが、「英語が通じ」かつ、バッハやショパンのようにクラシックや、「スターダスト」や「ミスティ」のような「ジャズ・スタンダード」が好きな人ならば、会話はスムースになります。

特にジャズは無理だろうが、「クラシックピアノが弾ける人」ならば、どこの国の人のだろうが、「同じ人種」だと感じるのは、「音楽は共通語」という陳腐な標語ではなく、「クラシック~ジャズは、どこの国にも浸透しやすいシステム(普遍性)」を持っているからだと言えましょう。

「ブルース」の初期、つまり「ブルース」という形式が確立する以前は、恐らく、元奴隷だった黒人の間でのみ「共通語」による共用できる音楽だった、と筈です。

しかし「ブルース」形式が確立されるに従い、実は非「アフリカ的な要素」=「クラシック的或いはヨーロッパ的なもの」が融合された筈で、融合されるに従い全米で流行し、流行するに従い、原点の元奴隷黒人達も「ヨーロッパ的なものが融合された=アメリカ的なブルース」に影響されます。

実際、1903年に「クラシック音楽の高等教育を受けた黒人」であるW・C・ハンディ(写真)が出版した「ブルース」と秀した沢山の曲が、その後の「ブルース」確立に大きく影響します。
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その事で、遥か昔の「アフリカ源流」の言語や文化は言うに及ばず、「黒人(アフリカ系米国人)」内でも色々に分かれていた言語や文化、更には「人種」が一つに融合されていきました。

「ブルース」とは対照的な「ラグタイム」や「ゴスペル」

「ブルース」についての「伝説」を打破(笑)する事はどうでも構いませんが、「ジャズ」の歴史を認識するには、やはり「アフリカ系米国人」の歴史については、ある程度、知るべきですから、元の「ジャズピアノ・メソッド」の話からは離れてしまいますが、話を続けませんしょう。

「アフリカ系米国人」いわゆる「黒人」については、本来の「アフリカ人」時代は様々な「部族」からなり、部族による言語や文化の違いは、日本と中国、韓国、タイ、ベトナム程に違う、という事を前述しました。

しかし、米国に奴隷として拉致され、異なる部族が一緒くたにされる中、「黒人奴隷」として一つにまとめられてしまいます。

では「黒人奴隷」は一つの「人種」として皆同じなのか、といえば、個性は別して、地域によって、まるで異なる「人種」として米国生活を過ごす事になります。

これは、例えば、南部のある地域で、「優しい主人」か「無慈悲な主人」かで苦しみが違う、とか、同じ主人に買われた奴隷としての立場は同じだが、一方は過酷な綿花摘み労働に従事され、一方は比較的楽な女中や召使にされた、という違いではありません。

変な例えで申し訳ありませんが、東南アジアで捕獲された野生の猿が、欧米や日本に「実験用」として送られるのか、現地で「食用」にされるのか、或いは現地や中国あたりで「ペット」にされるのか、という程に、生存自体が異なる程の違いが、アフリカから米国に拉致されてきた人々に与えられてしまます。

同じアフリカ系米国人を源流とする音楽として「ブルース」「ゴスペル」「ラグタイム」等がありますが、今でこそ、それらのウチのどの音楽を選択するかは、単に「好みの問題」ですが、それぞれの音楽が発祥した当時である19世紀末においては、「どの種類の黒人なのか?」が決めてでした。

大雑把に言えば、元「奴隷」だった黒人が選択するのが「ブルース」や「ゴスペル」、「クレオール」と呼ばれた混血黒人が選択するのが「ラグタイム」。

実際には、そう明確に職業選択ならぬ音楽選択する訳ではない筈ですが、大雑把な傾向として、「どの種類の黒人なのか?」によって異なる傾向にあった事も確かです。

いわば九州の人が、大阪でラーメン店を開業する際に「京風ラーメン」でなく「九州ラーメン」を選択した方が成功する率が高い、というのと同じです。

という訳で、次回はブルースとは対極ともいえるゴスペルやラグタイムについてお話します。

つづく

大阪梅田芸術劇場北向い Kimball Piano Salon 音楽教室 ジャズピアノ科講師 藤井一成
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ブクステフーデの音楽に夢中になり休暇が過ぎても帰らなかったバッハ [独断による音楽史]

前回、バッハにとっての「信仰」とは「勤勉に生きる事」で達成される事だったのではないか、
という自説を立てて見ました。

僕はキリスト教については門外漢ですが、バッハが所属した「プロテスタント系教会の基本」
として「勤勉」が述べられてましたから、僕の説は間違っていないでしょう。

「勤勉こそが「信仰の実践」であるならば、
定説とされる「バッハ信仰が厚かったから(勤勉に励んだから)
高いレベルの音楽創造を成し得た」は真実と言えましょう。

但し「勤勉」に「沢山作ればいい」というだけではないのが「音楽の本質」でして、
高みに向かわぬ限り「芸術」としての存在価値はありません。

後世に「絶対に習得しなければならない教則本」と日本で信じられている
膨大な数の「ツェルニー練習曲」を遺したカール・ツェルニーは、
正に「勤勉実直」を絵に描いたような人物で、師であるベートーヴェンの信頼を得ました。

反面「芸術性」はゼロ。従って「ツェルニー練習曲」なぞ学ぶ必要はない、
否、「触れてはならない」駄作と言えましょう。

対してバッハのピアノ作品は初心者向けの小品でも高い品格と芸術性を有し、
学ぶ程に味わいと演奏技術が高まるという逸品揃い。

結局「勤勉でなければならない」が「勤勉なだけでは駄目」なのが芸術というものですね。

ところでバッハには若干18歳にして技能と学識、品格を備え
「アルテンシュタットの教会オルガニス兼指導者」という結構な地位を獲ますが、
教会とは諸事衝突を繰り返した、というのが前回からの話でした。

「教会と衝突した」から「信仰が薄かった」とも言いぬのは、
教会が批判する「バッハは勝手にオルガンを改造して困る」は、
バッハにとっての「神に近づく行為」の前では「教会のまどろこしい手続き」
なぞ飛び去った故、だからです。

という訳では今日は「アルテンシュタット教会と決別した要因」の他のものである
「休暇が過ぎても戻らない」「合唱団がまとまらない」
「オルガン室に女性を連れ込んだ」等についても偏見に囚われずに、
作品を追う事で検証してみましょう。


「休暇の四週間が過ぎても戻らず、三ヶ月後に戻る」

バッハは「アルテンシュタット教会オルガニスト」時代、
「四週間の休暇」を教会に申請し、認められます。

休暇申請自体は問題がなく、その目的が「当時最高のオルガニスト」と言われた
ブクステフーデの元に「学びに行く」とあれば、褒められはこそ何ら責られる事はありません。

問題は四週間の休暇に関わらず、実際にバッハが帰ってきたのが三ヶ月後だったという点。

交通事情が悪かった当時ですから、四週間の休暇の筈が六、七週間に伸びてしまったとて、
許容できる範囲だったにせよ、三ヶ月は前代未聞。

なぜ三ヶ月もかかったのか?

馬車代をケチって400キロの道のりを徒歩で旅行したバッハ

バッハはアルテンシュタットからリューベックまで400kmを徒歩で往復します。
当時、徒歩での旅行は珍しくはなく、少年期「修道院の付属学校」時代に
足腰を鍛えたバッハにとって400㎞の道のりは当然だったかも知れません。

尤も「アルテンシュタットのオルガニスト職」という「平民としては結構な収入と地位」
を得ていたバッハの経済力と身分からすれば、乗合馬車を利用するのが当然。

それを惜しんだはバッハが終生貫く「ケチ」が発露されたからでしょう。

ちなみに「ケチ=質素倹約」も「プロテスタントの教え」だそうですから、
この点でもバッハは「信仰が厚かった」と言えるかも知れませんね。

問題は400キロを徒歩で向かうとなれば、目的地のリューベックまで一週間から十日を要し、
往復二週間から20日が移動に費や去られるので、リューベックに滞在できる日数が
十日から二週間しかなくなる、という点です。

つまりバッハは「ブクステフーデの滞在は二週間もあれば充分」と考えた結果、
合計四週間の休暇を申請したのか、始めから三ヶ月くらい滞在するつもりだったが、
教会が四週間しか認めなかったので、勝手に「休暇延長」したのかは不明ですが、
恐らく旅立つ前は「二週間で充分」と算段したのでしょう。

ではなぜ休暇を過ぎても戻らなかったのか?

バッハを圧倒したブクステフーデの演奏

伝記作者によれば、滞在が延びたのはバッハが「ブクステフーデに気に入られた」からだそうですが、
僕は逆にバッハが「ブクステフーデの音楽を気に入った」からだと思います。

バッハの後年の行動から察するに、いくら「ブクステフーデが気に入った」とて、
自分が気に入らねばサッサと帰ってしまう、のがバッハの常でした。

実際には相思相愛だったようですが、バッハにとって「ブクステフーデの音楽」は
「気に入った」というレベルで済まず「圧倒」された、というべきでしょう。

1770年代初頭に若干18歳(現代の感覚では28歳位)のバッハが、
アルテンシュタット教会から「破格の年棒」で迎えられたのは、
バッハが既に「凄腕のオルガニスト」として評判だったからです。

にも関わらず老ブクステフーデの前でバッハは「実力差に打ち負かされた」。

日本では「バッハの伝記」にしか登場しませんが、
「ブクステフーデの音楽」とはどのようなものだったのか?

ちょっとYou-tubeで聴いてみましょう。

曲はブクステフーデ作曲「シャコンヌホ短調」

https://youtu.be/VhUrdCisQW0

とても美しく、深い音楽です。

僕が驚いたのは「バッハそっくり!」な事。
勿論、バッハが真似(お手本)にした訳ですが。

ついでに同曲をオーケストラに編曲した演奏も。

https://youtu.be/3574_DY545c

これは編曲者のセンスのお陰もありますが、
現代の作曲家であるサミエル・バーバーやシュスタコービッチのような
モダーンな音楽に聴こえます。

「バッハ=初級 vs ブクステフーデ=中上級」の実力差

バッハはブクステフーデの音楽に圧倒されますが、
当時のバッハの実力はどれくらいだったのか?

上記の如くバッハは若干18歳にして、「破格の待遇」でアルテンシュタット教会が
契約したのは既に「凄腕のオルガニスト」として名を馳せていたからです。

当時のオルガニストは作曲家も兼ね、つまり作曲家としてもバッハも第一級だった訳ですが、
「アルテンシュタット時代」の作曲作品は殆ど残っておらず、幾つかの「これは使える」と
バッハ自身が感じた作品は、後年バッハ自身の加筆によって改作され現代に遺ります。

それらを含め遺された作品から察するに、当時のバッハの作曲技能は、
大雑把なイメージで言えば、現代のピアノ教本でもある「子供のバッハ」や
「初めてのバッハ」等の「初心者向け」作品という所でしょう。

これでも当時としては「凄腕」と言われてのは、
当時の一般的なプロテスタント教会の音楽のレベルは、
大雑把なイメージで言えば、
僕達の小学生時代の「音楽の授業」のような感じ。

「足踏みオルガンの伴奏」に合わせ「春の小川」や「埴生の宿」等を
皆で歌う、という程度。

それに比べれば、初心者向けと言えどバッハ作曲の「メヌエット」や「ジーク」等の
「初心者向けピアノ作品」は格調高く、当時としては複雑でモダーンな響に聴こえた筈です。

対して当時のバッハを驚かせた「フクステフーデの音楽」は、
これもイメージになりますが、バッハの中級向けとされる
「インベンション」や「フランス組曲」等あたりのレベル。

ブクステフーデの演奏(自作自演や即興演奏)を聴いたバッハは、
「フーガでやれる事はブクステフーデがやり尽くした」「もうやれる事はない」
とヘナヘナと崩れた、とも言われます。

丁度、19世紀末から20世紀初頭のクラシック作曲家が、
「ワグナーが調性音楽でやれる事は全てやり尽くした」とか、
「ショパンとリストとでピアノ音楽でやれる事はやり尽くした」と絶望したのと同様。

ちなみに「ワグナー以上の事はできない」と考えたシェーンベルクは、
今日、現代音楽と呼ばれる「無調音楽」の音楽体系を創り、
ドビッシーはショパンやリストとはまるで異なる手法のピアノ音楽を造り、
「違う道」へと進みます。

僕が想うに、後年、バッハの息子達が、放蕩の末に野垂れ死した長男のフリーデマンを別にして、
「バッハ風」の音楽スタイルの道は取らず、次世代の「古典派」風の音楽に傾倒したのは、
時代の流行、という事もありましょうが、バロック様式の音楽について父バッハが
「やり尽くした」からやれる事はもうない、と見切ったからでしょう。

ブクステフーデの限界を超えたバッハ

十九世紀末にワグナーやリストの音楽が「究極」的なものだったから、
それを超えれない、と考えた後世の作曲家は、まるで異なる音楽を造る事で
いわば自身の市場を開拓します。

対して「ブクステフーデがやり尽くしたから、もうやれる事はない」と
ヘナヘナと崩れた、と言われているバッハはどうしたか?

正に「ブクステフーデが打ち立てた前人未到の壁」を超える事を自らに誓います。

そもそも伝記作家がいう「ヘナヘナと崩れた」という説も間違っている筈で、
後年のバッハの行動から察するように、ブクステフーデの音楽に圧倒された際、
「おーし、やったるでぇ!」と(大阪弁ではない筈ですが)奮起し、
ブクステフーデの音楽を徹底的に学ぶ事とそれを超える事を始めた筈です。

「人が出来る事は自分も出来る」というのがバッハの信条だった筈で、
正にこれらの「勤勉」こそがバッハにとっての「信仰の実践」でした。

そして数年を経ずして生まれたのが
「名作」と呼ばれる「トッカータとフーガ ニ短調」です。

(つづく)

Kimball Piano Salon http://www.eonet.ne.jp/~pianosalon(2021年2月からの新URL)

Linkはブクステフーデのオルガン曲でなくあえてチェンバロ曲


ブクステフーデ:ハープシコード曲全集

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  • アーティスト: ブクステフーデ
  • 出版社/メーカー: Brilliant Classics
  • 発売日: 2012/02/28
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「教会オルガンの改造が度が過ぎて文句を言われたバッハ」の話 [独断による音楽史]

前回、バッハは二十歳にして「凄腕のオルガニス」として評判になるものの、
「音楽監督」を務めていたアルテンシュタットの教会からは、
「自分勝手で、変な音楽を演奏し、女癖も悪い」という「困った奴」という
批判を受けた、というお話しました。

バッハの言動について教会曰く;

「オルガンを勝手に改造する」 「聴きなれない奇妙な音楽を演奏する」 「合唱指導ができない」
更に伝記作家がここぞとばかりに書く「オルガン室に女性を連れ込んでご乱行」云々の
スキャンダルも伝えられています。

僕がバッハについて書き始めたのは、

「バッハは本当に信仰が厚かったのか」
「信仰の厚さが創造活動に影響するのか」

という素朴な疑問からですが、どうやら
若干二十歳にして最初の出世とも言える
「アルテンシュタット教会オルガニスト」職時代の
バッハの「困った言動」にこそ、
バッハの「基本姿勢」が見えそうです。

という訳で今日は青年期の「バッハの困った言動」ついて
考えて見ましょう。


バッハが「オルガンを勝手に改造するので困った」という話

*改造自体は職務ですが‥

現在と違い、当時のオルガニストの職務は「演奏」に止まらず、
オルガンの調整や改造も含まれました。

従ってバッハが「熱心、且つ、頻繁に改造した事」自体は褒められにせよ、
教会から批判される行動ではありませんでした。

にも関わらず「勝手に改造して困る」と苦々しく批判されたのは、
その頻度と内容が「度を超えていた」事が一点ではないか、と思います。

もし「改造」したいと感じたならば、今で言えば教会に対し「改造申請書」を提出し、
長老なりにプレゼンテーションし、「裁可」を受けた後、
漸く「改造」に着手する、というのが本来の手順。

勿論「小さな改造」はバッハが現場の裁量でやっても構わない、という所。

ところがバッハは「申請書」なぞ無視していきなり「改造」、
その頻度や内容も「常識外れ」だった、と考えられます。

ここで考えたいのがバッハの「性格」。

音楽室の肖像画からは「重厚な人柄」がイメージされますが、
実際には物凄く「せっかち」で、日がな小言を連発し、周囲からは煙たがられるような
「コテコテのおじさん」ではなかった、と言うのが僕のバッハ観です。


「せっかちな性格」が災いした?

バッハが「せっかち」だったに違いないと思える根拠は「作品数の多さ」。

現在出版されているバッハの作品全てを「単に書き写すだけでも一生かかる」
と言われる程の物凄い量の作曲をこなします。

しかも更に驚くべきは、作品の殆どが名作と呼べる程のクオリティーの高さを保っている事と、
バッハは作曲以外にもオルガン演奏、学生への授業、合唱団やオーケストラの指揮、その他諸々の
普通人ならばその一つだけでも精一杯な仕事を並行してこなす超多忙な日々を送っていた事。

にも関わらず量、質共に高品質な作曲活動を生涯続け他のは驚嘆すべき事実です。


作曲するのも取り掛かるのも「物凄く速かった」

バッハの「作曲する速度」が物凄く速かった事は確かですが、
作曲の「仕事に取り掛かる」のも早かった筈だと思います。

そう思うのは、僕がバッハとは比較対象の範疇にすら達しないレベルに位置する点は
目をつぶって頂くとして、僅かながら作編曲活動(?)する身として想像するに、
作曲自体の速さ、と共に「仕事に取り掛かる」速度も人生を分岐するな、と実感できるからです。

例えば僕が作編曲や原稿の依頼を頂いた場合、毎回、締め切り間近まで放置してしまい、
いよいよ締め切りだという前日には流石に机に座るものの、
まず「気合をいれる為」にコーヒーを淹れて飲み、こういう時に限って気に障る
部屋の散らかりを大掃除までやって片付け、漸く机の前に座ると、
五線紙の書式が気に食わぬので印刷し直。

さぁ仕事にかかろう、と鉛筆を握ると急激に眠くなり、
翌朝「締め切りを伸ばして貰う」電話をから漸く仕事が始まる‥というのが毎回。

これがバッハだとどうなるのか?

現代で例えれば仮にランチの時にバッハの元へ仕事依頼の電話がかかった、とします。
バッハならば左手で受話器を握り、打ち合わせをしつつ、机の上の五線紙に書き始め、
夕食の前には完成した作品をファックスで送信する、という日常だったように想像します。

そして「凄い速度で作曲ができた」のは「才能」もありましょうが、
少年期の「修道院付属学校」で身につけた「勤勉さ」こそが、
「才能」を具体的に開花させた「能力」だと言えましょう。

「のろい教会の裁可」なぞ待てなかったバッハ

話を戻しますと「思い立ったら即実行」する事がバッハのモットーですから、
「改造申請書」するより早く、朝までかかって「改造」し「翌朝、教会に事後申告」する筈が、
朝来てオルガンを見ると新たに改造したくなる‥を繰り返し、気づいたら、
別物みたいな改造がなされてしまった、という事でしょう。

つまり今の感覚で感覚で言えばバッハ「組織に収まらないアウトロー」的な
「我儘勝手な人物」だと感じる上司も少なくなかったようです。

高い理想の前には下界の思惑は無視する

ところで「バッハは信仰が厚かった」という通説を検証しよう、
というのが小文の始まりでした。

尤も「キリスト信仰とは何か?」という根本がはっきりしないと、
バッハの信仰が厚かったのかどうか判定しようがありません。

とはいうものの門外漢の僕が書物で調べて程度での知識で書きますので、
「間違っていたらごめんなさい」ですが、バッハにとっての「信仰」とは、
「教会で祈る」とか「聖書を学ぶ」に加え、
「勤勉に生きる」事こそが「信仰」の要諦ではなかった、と思います。

言い換えれば「ハードワークする」という事こそ、
「信仰」を「実践」している事であり、いわば
「神の御心に叶っている」状態だったと自覚できたのでしょう。

従って「至高の音」が出るようにオルガンの改造を続ける事は、
バッハにとっての「神に近く行為」であったと言えます。

その至福の時間の前では「教会のご機嫌なんざに構ってられるか!」
という教会にとっては「我慢できない態度」を取っても不思議はありません。

バッハの「不祥事」として「勝手にオルガンを改造する」に加え、
「休暇を過ぎても帰って来ない」「合唱団をまとめれない」という職務上の問題と共に
「オルガン室に女性を連れ込んだ」という個人的なスキュンダルも山のようにありました。

その原因はバッハが「信仰」心を欠く我儘勝手な人物だったからではなく、
バッハ式「信仰」を徹底させてからの教会との「歪み」が生じたから、というのが真相のようです。

という訳で次回は更に教会を悩ませた「休暇を過ぎても帰らない」
「合唱団をまとめれない」「オルガン室に女性を連れ込んだ」という逸話から、
「真実」を考えて見ましょう。

(つづく)

kimball Piano Salon http://www.eonet.ne.jp/~pianosalon(2021年2月からの新URL)

PS. リンクはグレン・グールドによるバッハ曲のオルガン演奏。

本来ピアニストであるグールドが弾くオルガンは、
よくイメージされる「バッハ=荘厳な大聖堂の響き」ではなく、
小学校の足踏みオルガンを大きくした、という規模のもの。

これで聴くバッハもなかなか乙なものです。


バッハ:フーガの技法/マルチェルロの主題による協奏曲/イタリア風アリアと変奏

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バッハは18歳にして年収450万円で「教会オルガニスト」に抜擢 [独断による音楽史]

皆さん、こんにちわ。「教会音楽とバッハの関係」と称し、
「バッハは信仰が厚かった」「信仰がバッハの音楽創造の源」等の
「常識」検証する、という罰当たりな事を始めました。

前回はバッハが少年期を「修道院付属学校」で過ごした事で、
「神学」はさておき「勤労奉仕」や「活動的な身体」という
「キリスト教精神に基づく心身」を培えたようだ、という結論を得ました。

今回は第三回目として、いよいよ音楽家としてのスタートを切る
青年期のバッハの「信仰」を伝記を参照に考えてみました。

最初の「就職」は地元の宮廷楽団のバイオリン奏者

「修道院付属学校」で音楽、一般教養、神学等の学問に加え、
「勤労奉仕の精神」と「活動的な身体」を習得した10代のバッハは、
今でいう「卒業」後、地元ワイマールの宮廷楽団にバイオリン奏者として
「就職」します

尤も当時「宮廷楽師への就職」は、現代の音大生が「競争に勝ち抜いて
念願のオーケストラ入団を果たす」という程にはめでたいものではなく、
現代で言えば「調理師学校卒業後に、志望したホテルのレストランに就職できた」
という程々のめでたさ、という所でしょう。

そもそも当時の音楽家(音楽職人と呼ぶべきか)は、
「特別に才能がある」とか「音楽が物凄く好きだ」からこの道に進む、
というものではなく、特殊な職能とはいえ、現代で言えば、
「家業の蕎麦屋さんを継ぐために修行をする」過程で成れる職業選択の一つでした。

バッハが「宮廷楽団のバイオリスト」に就職できたのも、
「才能に恵まれたから」という大袈裟なものではなく、
現代で言えば「調理師学校を卒業したからホテルのレストランに就職」し、
「見習い」として仕事を始めた、という程度でしょう。

半年後に「新しくできた教会のオルガニスト」に「転職スキルアップ」

晴れて「宮廷楽師」として「新社会人」としてスタートを切るバッハですが、
半年後に、アルンシュタットの新教会に新型オルガンが設置された、
と当時の「就職情報誌」に相当する「口コミ」で聞きつけ早速「転職」の面接に出かけます。

結果はバッハの圧倒的なオルガン演奏に満場一致で採用決定
教会のオルガニスト兼聖歌隊の指導者に「転職スキルアップ」。

「転職」で「年収が三倍」に!

「宮廷楽師」から「教会のオルガニスト」に「転職」したのは、
「信仰が暑いバッハは教会に居たかった」という説もありますが、
やはり「年収アップ」が理由でしょう。

社会システムが現代と異なるので貨幣の価値が異なりますが、
単純に現代の邦貨で換算し、前職の「宮廷楽師」が年収60万円程度、
対して「転職」後の「教会オルガニスト」が年収150万円程度。

恐らく、それぞれの数字を三倍にしたのが現代日本での貨幣価値に
相当すると思われますから、「宮廷楽士(見習い)」が年収150万円、
「教会オルガニスト」が一気に年収450万円に「転職アップ」。

これが当時18〜19歳のバッハの職と報酬ですが、
当時は12〜3歳位から「丁稚奉公」を始め18歳位で「親方」として独立した訳ですから、
当時の18歳は現代の28歳位に相当するでしょう。

つまり現代で例えれば、バッハは28歳の時に、
地元の小さなホテルのボーイさんだったのが、
大きなホテルのフロア・マネージャーに抜擢された、
それまでの三倍の450万円の年収になった、という所でしょう。

ちなみに「宮廷楽士」の給料は安い、という意味ではなく、
バッハがいわば「見習い」だったから僅かな報酬しか得れなかった訳で、
後に別な宮廷の「楽長」に就いた際には現代の貨幣価値で年収数千万円の待遇を得ます。

又、少年期から青年期にかけてのバッハは半年から数年に一度の割合が「転職」を繰り返しますが、
これは「職を転々とした」という意味ではなく、当時から近代に至る欧州では、
同業の中で腕を磨いてはより条件の良い職場へ変わっていく、というのが正常でした。


「見習い楽師」中に驚異的な進歩を遂げた少年バッハ

「修道院付属学校」を「卒業」して一年を経ず「若いが凄腕のオルガニスト」として
ブイブイ言わせ始めるバッハですが、ほんの半年前までは薄給の「見習い楽師」でした。

この辺りについて「伝記作者」は詳しく書きませんが、
バッハはモーッアルトのような「天才少年」ではなく、
最初の職である「宮廷楽師」の際も格別の待遇を受ける存在ではなかったようです。

にも関わらず僅かな期間で他を圧倒するオルガニストに成長し得たのは、
バッハに「才能があった」事は勿論ですが、少年期に兄からの受けた厳しい教育
(=職業訓練)も有効だった事と共に、やはり少年期の「修道院付属学校」で叩き込まれた
「精進努力」という「キリスト教精神」の実践の成果でしょう。

そういう意味でバッハは「信仰が厚い」人と言えますが、
現実のバッハは生涯に渡り、音楽上でも「素行(の悪さ)」の点でも、
教会から批判され続けます。

オルガン室に女性を引き込みクビ(?)に

若くしてアルンシュタットの教会オルガニストという誇らしい職に就いたバッハですが、
前述のごとく「より良い条件を求めて」という理由と、教会側との衝突が原因で、
三年を満たずして「転職」を余儀なくされます。

アルテンシュタットの教会がバッハと対立した理由を並べますと

1,オルガンを勝手に改造する。
2,休暇を過ぎても帰って来ない。
3,「不協和音と不揃いのリズム」のおかしな音楽を作曲する。
4,合唱団の指導がよくない。
5,素行(特に女性関係)が悪い。

等々挙げられます。

要するに教会の立場では、バッハは若くして才能はあるものの、
ワガママ放題で変な事を色々とやる、扱い難い困った人物だった、
と言えた訳です。

ところでバッハと言えば、音楽室の肖像画や荘厳な教会音楽から、
「真面目一方のお硬い人物」=「信仰が厚かった」とイメージされます。

にも関わらず伝記作家がここぞとばかりに書くように、
神聖な礼拝堂のオルガン室に女性を連れ込んで「お楽しみ」に耽った訳ですから、
「素行が悪い」と言いましょうか「ファンキーなオヤジ」ではなかったのか、
なんだかホッとするような逆のイメージを描いてしまいます。

実際、バッハに計20人の子供が生まれた(生存できたのは10人)事も、
バッハが「精力絶倫」ぶりと共に「ファンキーさ」の心証となり得ましょう。

更に拡大解釈し「バッハの信仰が厚かった」は嘘ではないか、
と言い出す人も出てくる始末です。

実際はどうだったのか?

そこで「オルガン室に女性を連れ込んでバッハはナニをやったのか?」

そのあたりについて「伝記」ではなく、
残された作品から調べてみましょう。

(つゞく)
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