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ジャズの歴史2/ラグタイムを創生したクレオール [独断による音楽史]

前回から「ジャズの歴史」と密接な「米国黒人の歴史」についてお話していました。

19世紀半ばの「南北戦争のリンカーン率いる北軍の戦勝により奴隷解放宣言が発令」され、米国には法的にも「奴隷」とされたアフリカ系の人達が多数存在した事は誰でも知っていると思います。

尤も「奴隷解放」以前にも、主人が合法的に「解放」したり、逃亡し、合法的に「自由黒人」と認められた人達がいた事は案外知られていません。「自由黒人」の大多数は米国北部のニューヨークやワシントン等に移住し、教経済的にも社会的にも成功し、高等教育を受ける人もいました。

これらの「知的階級」のシンボルの一つが「キリスト教黒人教会の牧師」さん達でした。

ちなみに、この時点で「黒人教会」を設立したのはキリスト教の「プロテスタント系」で、知的階級のみならず「奴隷黒人」にも多大な布教を展開しました。

「黒人教会」が「奴隷黒人」にも布教したのは、黒人牧師さんの意志もありましょうが、奴隷の主人であった「白人」側の管理方針でもありました。

つまり「キリスト教プロテスタント教会」はうがった見方をすれば黒人に対し「正しい奴隷の生き方」なるもの、つまり主人に反抗せず勤勉に働く等の支配管理する側からは好ましい指針であった訳です。

但し、「プロテスタント教会」の黒人指導者達は、大人しく「支配される」事でも、逆に「反抗する」事でもない別な「黒人の地位向上」として、知性と勤勉さで、白人から「黒人」が「同じ人間である」事を認めさせる、という努力をしました。

半世紀以上後の話になりますが、暗殺された有名なマーチン・ルーサー・キング牧師の考え方は、この「白人に認めて貰う」という事による地位向上にあった、と言えます。

ちなみに、これも前回書きましたが、キング牧師とは一見真反対に見えた同時代の、これも暗殺されたマルカムXはキリスト教自体を否定し、「黒人の宗教」としてイスラム教への回帰と共に、「白人から分離した黒人の国を米国内に作る事」を提唱。その為には暴力も厭わない、という方針でした。

一見すれば「平和的」なキング牧師と、「暴力的」なマルカムXは真反対ですが、実際には夫々の晩年には両者は協調します。要するに「黒人の位置向上=権利の獲得」という「目的」は同じだから、というのと、「キング派とマルカム派とで、黒人同士で紛争する事」こそ、二人の共通の敵ともいえた「米国の支配層」の戦略だと見抜き、敢えてキングとマルカムは協調すると共に、白人に対しても友愛を訴え、多くの白人が二人に賛同したのでした。

そして、それこそが、「米国支配層」の忌避したい所であり、それ故に二人共、暗殺されてしまった訳です。

それはさて置き、「キリスト教プロテスタント教会」が黒人の権利のみならず、知的レベルの向上に貢献した事は疑うべきもない事ですが、キリスト教のもう一方である「カソリック教会」はどうなのか?という話が、次の「南部のクレオール(混血黒人)」に繋がります。

「奴隷農園の主人」だった「混血黒人(クレオール)」

前述のように「奴隷解放令発令」以前の「黒人(アフリカ系米国人)」の全員が「奴隷」だった訳ではなく、北部を中心に「自由黒人」も多数存在しました。

そして「奴隷黒人」とも、そこから何らかの努力で脱出した「自由黒人」とも異なるいわば第三の流れとして「クレオール」と呼ばれる混血の黒人(白人)が南部ニューオリンズには存在しました。

南部ニューオリンズ州は元々フランス領でしたが、19世紀初頭に当時のナポレオン三世が米国に譲渡した事で「アメリカ合衆国」に編入されましたが、編入後もフランスの文化のみならず法律が継承されました。(実は現在でもニューオリンズの公用語は英語とフランス語)

「フランス植民地時代の法律」は、実質的にフランスの国教である「キリスト教カソリック」の価値観に基づく関係で、「奴隷である黒人女性」と「主人である白人男性」の間に生まれた子供は「主人の側」と法的に看做されました。

白人主人と黒人奴隷女性との間に子供ができたのは、例外を除き「恋愛の末、結婚した」という事ではなく性的暴力の末といえましょうが、経緯はともかく、生まれた混血の子供は、法的に「主人の側=「白人」に分類されました。

ちなみに「白人」と書きましたが、「南北戦争」終結後の「奴隷解放令発令」までのニューオリンズの価値観でいえば、「白人」とか「黒人」という分類ではなく、「フランス人の血統」がどうかが重視されました。

要するに「白人」であってもカトリックでない北部の「英国系米国人」は「人種」として下。アフリカ系の血統であるにせよ、片親が「フランス人」ならば「英国系」よりはマシ、という感覚。

実は米国黒人のみならず、アフリカ人をどう扱うのか、については、カトリック教会の総本山であるローマ教会でも議論の的でしたが、アフリカについては「カソリックに入信したアフリカ人は人間扱い」し、そうでないアフリカ人について「人間」ではない。

従って駆り集めて奴隷にしても、牛を集めて牧場を作るのと同じだから構わない、という考え方。

米国ニューオリンズでのカトリック教会については、基本的には「奴隷黒人」には布教しなかったので、したがって「奴隷黒人」は「カトリック教徒」ではないから、どういう扱いがされようが教会は関知しない、という立場でした。

但し、どういう経緯で生まれたにせよ、フランス人やスペイン人等の「カソリック教徒」の血統が半分入った「混血黒人(混血白人というべきか)」に関しては、「人間=カソリック教徒」扱いされました。

この「混血黒人」を「クレオール」と呼びますが、実は映画等の話と異なり、「奴隷農園」は大勢の奴隷を抱えた邸宅に住む主人がいる、という事は例外的で、「貧しくて嫁の来てがない」貧乏白人が、頑張ってお金を貯めて労働力としての奴隷男性と共に、労働力兼オンナとして奴隷女性を購入する、というパターンが殆どでした。

その結果、奴隷女性が実質的「妻」になると共に、二人の間の子供が「跡継ぎ」になるケースは珍しくありませんでした。或いは白人の「本妻」がいるにせよ、奴隷女性との間の「混血児」も何らかの財産を相続する事になります。

その結果、「奴隷農園」の二代目主人は「クレオール(混血黒人)」である場合が少なくなく、また「フランス式の法律」の元では「クレオール」は完全に「白人」というか「人間=カソリック教徒」の扱いを受け、実際、南北戦争終結以前のニューオリンズの市会議員や銀行家の半数が「クレオール」だったと言われています。

南北戦争後の「奴隷解放令」で没落し、「黒人」になった「クレオール」

ところで16世紀以来の南部ニューオリンズの「奴隷農園」は、その半数が「クレオール(混血黒人)」だった主人の元、順調な発展を遂げ、19世紀頃には「クレオール」主人もニューオリンズの「中流」もしくは「上流」階級へと発展しました。

これも蛇足ながら、映画「風と共に去りぬ」はクラーク・ゲイブルとビビアン・リー主演、上流階級の美男美女のお話ですが、私はこれが実話に基づいており、且つ、それは「クレオール」家庭の話ではないか、と憶測してます。

実際、南北戦争の南軍の敗戦により、ニューオリンズにはリンカーンを長とする北軍が占領軍として入って来て、全てを変えてしまいます。

奴隷解放令の発令は、要するに「人件費の高騰」と共に、新しく導入された北部の価値観に基づく法律により「クレオール」は今迄の「フランス人=人間」という身分から、「黒人」という身分に落とされてしまいます。

今でこそ「白人」と「黒人」という「人種」分類で考えますが、南北戦争以前は「フランス人=カトリック教徒=人間」かそうでないか、という価値観で分類され、「クレオール」は「人間」つまり後の「白人」的な身分に分類されていました。

それを失った事で、色々な公職から追放されたり、農園の経営不振から、それまで中流~上流階級だった「クレオール」は没落してしまいます。

その結果、「解放」された元「奴隷黒人」と共に、北部から流入してきた資本による工場に働きに出たりしたようですが、そもそも「クレオール」と「奴隷黒人」は犬猿の仲なんですね。

元は半分「奴隷黒人」の血統だからと言って、「奴隷黒人」に優しくした、なんて事はなく、むしろ、なまじ「白人」の主人より、「クレオール」の主人の方が「奴隷黒人」に対し無慈悲だった、と言われています。

「奴隷農園」を描いて映画では、奴隷に残虐な仕打ちをするのは「白人」と決まっていますが、実際には「クレオール」つまり外見は「ほぼ黒人」か「どことなく黒人」の外見をした人こそ残虐だった訳です。

或いは「クレオール」の子供の結婚に際しては、悪くても「クレオール同士」で、できれば「白人」と結婚し、つまり子供は「ハーフ」だったが、孫は「クオーター」、その子供に至っては「白人」になる場合もあり、遺伝子の関係で、姉は「白人の風貌」だが、弟は「黒人の風貌」という事もままありました。

とは言え外見とは関係なく、或いは「ハーフ」だった代から、「奴隷黒人」とは異なる「人種」とし「クレオール」としての生きてきた訳で、今更「黒人」の中に入って行って生きる、というのは、難しい話でした。

その結果、没落した「クレオール」の女性は今でいう水商売や風俗業を始めました。

これは明治維新や第二次世界大戦後、それまでの大名や華族(元大名他)だった人達が没落し、普通のサラリーマンや公務員に転職した人が多かったが、キャバレーやバンドマンのような水商売に転職したケースが少なくなかったのと同様です。

悲惨な例として、「借金のかたに風俗業に売り飛ばされた」という事例は、明治維新や戦後の日本でもあったのと同様にニューオリンズの「クレオール」にももあった筈ですが、自邸を改装しての「高級売春宿」を開業する人も少なくなかったようです。

と街には北軍の給料をたっぷり貰った羽振りの良い兵隊が溢れており、彼らからすれば「クレオール」は「黒人」というよりは近くに寄れなかった「元上流階級の令室」という感じで、千載一遇のチャンスとばかりに飛びついた訳です。

没落した「クレオール」男性が始めた職が「売春宿のピアノ弾き」=ラグタイムの始まり

没落した「クレオール」女性が水商売や風俗業を始めた影響で、男性が始めた職業の一つが「売春宿」での「ピアノ弾き」。

元々は当時の流行歌やセレナーデやポルカ、マーチ等を弾いていましたが、その内、誰が造り出したのか、今でいう「ラグタイム」スタイルでピアノ演奏を始めた訳ですが、これが大流行。

敗戦前まで中上流階級に属していた「クレオール」は、教育があり、ピアノやバイオリン、フルートやクラリネット等を正式に学んだ人も少なくなく、敗戦までは優雅に当時の新進人気作曲家だったシューマンやブラームスのようなクラシックを楽しんでいた筈です。

ところが敗戦後は、大金をばらまく北軍の兵隊相手にサービスする訳ですから、軍楽隊が演奏する「マーチ」のように曲を随時用い、いわば「マーチ」のピアノ音楽版が「ラグタイム」になった、という所。

ちなみに「ラグタイムは楽譜に書かれた音楽で即興がない」と評する人もいますが、元々、即興的に編曲したり作曲したりしていた訳で、「楽譜」がなくても「ラグタイム」を演奏した筈です。

但し、クレオールの場合、音楽教育を受けていたので楽譜を読んだり、書いたりする技能があり、つまり「出版」して稼ぐという事もできたが故、現在にも「出版されたラグタイム」が遺っている訳です。

蛇足ながら、20世紀半ば以後のクラシック音楽の世界では「作曲家」と「演奏家」が分業しますが、それまではクラシック音楽においても「ピアノが弾ける」=「作曲や即興ができる」が普通でした。

むしろ現代の「楽譜通りには弾けるが作曲や即興はできない」というのは異常。

「文章は読めるが、文章を書けない」なんて人がいないのと同様に「楽譜が読める」=作曲や即興ができるのは普通の話でした。

そういえばショパンの「ワルツ」や「マズルカ」なぞは、やたらと同じメロディーの繰り返しが多いので弾いていた厭きてくる事もありますが、これらの曲は、元々「即興」する事が前提。

つまり同じメロディーを繰り返すのではなく「即興」を加えていた訳。
同じショパンの名曲でも難しい「即興曲」や「練習曲」「夜想曲」等の、音符で埋められている曲は、「ショパンならば、こういう具合に即興する」という見本が書かれている、と考えるべきでしょう。

そんな訳で「クラシック音楽の素養があったクレオール」達はクラシック名曲や流行等を編曲や即興しつつ、「売春宿のピアノ弾き」を稼業として続けた訳です。

そして「クレオール」が音楽教育の素養を活かして「ラグタイム」演奏で稼ぎ始めた頃に生まれたのが、元「奴隷黒人」だった人達によって作られた「ブルース」や「ゴスペル」です。

(ジャズの歴史3につづく)

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