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ギロックVSリー・エバンス「ジャズ編」1 [Lee Evans Society]

「ピアノ入門~中級用メソッド」として人気のバスティン、ギロック、リー・エバンスのどれが良いか?という「対決」の三回目。

ちなみに僕は「リー・エバンス・メソッド普及」を目指す「Lee Evans Society of Japan」の代表なので、当然「リー・エバンス」一押しなのですが、僕自身の教室である「Kimball Piano Salon 大阪梅田」では生徒さんに応じてバスティン、ギロック、リー・エバンス他を使い分けています。

という訳で「優劣」では判定できないのですが、僕の私見(今更言うまでもなく、全てが私見ですけど笑)では「完全なレッスンプログラム」では「芸術性」ではちょっと落ちるかな、というのが「バスティン」。

「ピアノ教室における最良の教育哲学」を確立したのが「ギロック」。

僕自身「ギロックの教育哲学」に奉じている訳ですが、実はウィリアム・ギロック先生が特別な考え方をお持ちだった、というよりは「まともな芸術家(案外に少数ですが)」ならば誰でも想う事を明白にされた、という訳ですが、これ一点だけでもギロック先生は偉大だと言えます。

リー・エバンス先生の場合は、ギロック先生が提唱されたような「教育哲学」は当然の事として、わざわざ述べられてはいませんが、教材や作編曲作品が物語っています。そして作編曲については、リー・エバンス先生の方が「ギロック派」よりも一枚上手と言えましょう。

そもそもリー・エバンス先生とはどういう方なのか?

米国のメジャー・レーベルの作編曲家として活動を開始されたリー・エバンス先生

1960年代にNYの音楽大学を卒業された後、リー・エバンス先生は「ジャズピアニスト」として米国のメジャー・レーベルから七枚のレコードをリリースする傍ら、編曲家やディレクターとして、キャロル・チャニング、トム・ジョーンズ、エンゲルベルト・フンパーディンク、キャット・スティーブンス、ギルバート・オサリバン、エマーソン・レイク&パーマーなどのヒット作を担当されます。

日本でいえば三枝 成彰氏や服部 克久氏のような存在だった訳ですが、三枝氏や服部氏からあく抜きした感じ。

私も詳しくは聞いていませんが、1960~70年代の米国テレビの音楽も多数手がけておられますが、「1960~70年代の米国テレビドラマ」と聞いて「わんぱくフリッパー」やら「ナポレオン・ソロ」「奥様は魔女」なぞか思い浮かぶ人は、なかなかのご年齢ですね(笑)。私も浮かびましたが。

YouTubeで見つけた「ナポレオン・ソロ」https://youtu.be/WfRzeS8RTKg?si=LgpHtLFeOqNLrmEd

Lee Evans 先生の編曲とピアノ https://youtu.be/C8Gzd7DBonY?si=KCJ1Mz0uFBHHSHpM

要するに若いころから業界内では「実力派の編曲家、ディレクター、ピアニスト」として活動されておられた訳ですが、1980年頃から「音楽教育」、正確には「リー・エバンス・メソッド」を発表されます。

詳しくは別な機会にお話ししますが、1980年代初頭に生まれた「リー・エバンス・メソッド」はそれまでの如何なる「ジャズメソッド」とも異なる考え方が特徴であり、直後に日本に輸入された際は「黒船来航」のような衝撃を関係者に与えました。

早い話、当時、二十歳過ぎだった僕も、この時の「リー・エバンス・ショック」に見舞われ、簡単に言えば当時、音楽之友社から出版されたリー・エバンス関係の教材の全てを購入し、数年かけて、その全てを自学したのは、そもそも日本に「リー・エバンス・メソッドで教えれる先生」なぞいなかったからです。

尤も音楽之友社から出版された全ての教材をやってはみたものの、なるほど「ピアノ自体は上達」したものの一向に「ジャズピアノ」は弾けませんでした。

結局、この時に国内上陸した「リー・エバンス」教材は、一部に過ぎず、最も重要な「基礎部分」を欠いていたのと、これは現在もですが、リー・エバンス先生の説明が少なすぎで、どう使うべきなのか、さっぱり分からない、と言う困った理由からです。

その後、出版社が音楽之友社から東芝EMI、ソニー・ミュージックと変わるものの、それらの欠点はなんら改善されず、ただし、それなりに本自体は売れ続けていた、という状態が二十年以上続きます。

2008年に、自分でいうのもなんですが、僕が監修者として参加した「リー・エバンス・メソッド国内上陸の第二弾」になって、漸く僕他数人が、「リー・エバンス・メソッド」の全容を知り、オクト出版社から寛容な「基礎部分」の教材二十数冊分(国内版は原書二冊を一冊にまとめて十一冊)が出版されました。

尤も、僕自身、「リー・エバンスの本質」を理解するのに、それから十年以上かけ現在に至る訳ですが、その間、矛盾するようですが、僕は「ギロック派」のマーサ・ミアーさんのジャズ教材にハマったりもしていました。

始めから「教育者」だったギロック先生

リー・エバンス先生のプロ音楽家としてのキャリアに対し、ギロック先生はどうか、といえば、ピアニストや作編曲家として業界を闊歩した、という事は皆無のようです。

高校の英語教師として職歴がスタートし、広告代理店勤務やらクラシック歌手の伴奏をやったりしたもの、ピアニストとしても作編曲家としても大したものではなかった、というのが偽らざる所です。

但し「ピアノ初~中級者」向けの作品を書くとピカ一であり、また「広告代理店勤務」という経歴にも拘わらず、いわば反「広告代理店」的な「純粋な音楽教育」を提唱。

その後は多くの人に愛される作曲家であり、教育家として生涯を貫かれた訳ですが、「作曲技術」自体について比較すれば、やはりプロ中のプロだったリー・エバンス先生には一段劣る、と思います。

但し、前回書きましたが、ギロック先生に限らず、グレンダ・オースチンさん以下のギロック門下は、「ピアノ初~中級」レベルにも拘わらず「聴いて映える」演出が巧みであり、単なる「教材」ではなく、「人に聴かせたい作品」として魅力的に仕上がっています。

まぁ、そこが「ギロック派」の欠点といえなくもないのですが…。

という事はさて置き、今日は「リー・エバンスVSギロック」対決第三弾として、両者の「ジャズスタイル」の違いについてお話しましょう。

南部派の「ギロック」と北部派の「リー・エバンス」

一言に「ジャズ」と言っても、年代や地域で色々な「スタイル」があります。

前述のようにリー・エバンス先生自身は1960~70年代に作編曲家/ピアニストとしてデビューされた訳で、今も「1960年代」の、僕が勝手に造語した「Lounge Jazz」スタイルの人といえます。

ちなみに「1960年代のLounge Jazz」といえば

アストラット・ジルベルト&スタン・ゲッツ/イパネマの娘、https://youtu.be/a8wcZUUXJFs?si=cT0Q1c99pegN_cyb
ラムゼイ・ルイス/|ジ・イン・クラウド https://youtu.be/lcIn3cZEhUo?si=87plzwZyRGBXYprt

等の「ボサノバ」と呼ばれるスタイルや、当時、一世を風靡したロックと結合した「ジャズ・ロック」などとのスタイルが生まれ、リー・エバンス先生自身は、それらを含む、もう少しゆったりとして「イージー・リスニング・ジャズ」に関わられたようです。

但し、「リー・エバンス・メソッド」の「初級」も、「1960年代Lounge Jazz」の簡単版なのか、といえば全然違うのです。

なんちゃって、ではなく「ジャズの基礎」として学ぶ1920年代ジャズ

日本だと「ジャズピアノ初級」と称し、ビル・エバンスやウィントン・ケリーあたりの「モダンジャズ」ピアノを勝手に安易に編曲した「なんちゃってジャズ」が楽譜として与えられる場合が少なくありません。

これはクラシックピアノでいえば「ショパンの革命のエチュードが弾けるようになりたい」というピアノ入門者に対し、サビの部分のみを単音のメロディーで弾かせるようなものです。

「革命のエチュード」を単音と鳴らしたからと言って、何かが習得できる訳ではありません。

実は米国では「ジャズ」の「基礎」として、この手の「なんちゃってジャズ」ではなく、「古い時代のジャズ」正確には「ジャズになる前のラグタイムやブルース等」を学ばせる、と考えが確立しています。

「ショパン」が弾きたいからと言って、「なんちゃってショパン」ではなく、「バイエル」はともかく、バッハやハイドン等の古い時代の音楽を「基礎」として学ぶのと同じです。

日本で「ジャズ」つまり「モダンジャズ」の先生が、「なんちゃって(モダン)ジャズ」を教材して用いる傾向にあるのは、先生自身が「モダンジャズ」以前の「スウィングジャズ」や更に古い「ニューオリンズ・ジャズ」「ディキシーランド・ジャズ」、更にそれ以前の「ラグタイム」なぞを知らないからなのです。

先生自身がまともに勉強した事がないのに、生徒に教えれる筈がありませんが、「クラシックピアニスト」で、例えショパンやリストの名曲の快演で売れたにせよ、バッハやベートーヴェン等の古典やバロックを勉強した人は皆無の筈なのに、「日本のジャズ」に関しては、精々1940~60年代「モダンジャズ」の中で古いのや新しいのみしか知らない、という人は珍しくありません。

これでは「ジャズの基礎がない」と言われも致し方ない訳ですが、その話はさて置き、「リー・エバンス」にせよ、中上級は「リー・エバンス先生自身のスタイルである1960年代Lounge Jazz」を課題としまずか、「ピアノ入門~初級」においては、そうではなく「1920年頃のジャズ」、大雑把に「初期ジャズ」と呼ばれるスタイルを課題曲とします。

この点は「ギロック」も同じですが、尤もギロック先生が果たして「モダンジャズ」を弾けるのかどうか不明ですが、しかし「1920年代の初期ジャズ」はちゃんと弾け、そのスタイルで高密度な作曲をされておられるのは、大したものだと言えましょう。

尤も、これが当然と言えるのは、例えば「日本文学を志す人」が、吉本ばななや村上 春樹は愛読しているが、夏目漱石や森鴎外は読んだ事がない、というのと、逆に漱石や鴎外、志賀直哉等は熟読したが、今時の作家は読んだ事がない、というのでは、明らかに「漱石は熟読しているが、吉本ばななは読んだことがない」という人の可能性が遥かに大きいと思えるのと同様です。

但し、同じ、1920年代の「初期ジャズ」でもリー・エバンス先生の「北部」と、ギロック先生や派閥の「南部」とでは相当に違ったものになります。

おっと時間が来ました。次回「北部ジャズ=リー・エバンス」と「南部ジャズ=ギロック」についてお話します。つづく

写真は1960年代の米国テレビドラマ「ナポレオン・ソロ」
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ギロックvsリー・エバンス「ヒーリング編」 [Lee Evans Society]

前回、米国を代表する「ピアノ入門~中級対象のピアノメソッド」である「バスティン」や「ギロック」と不詳僕が国内代表となる「リー・エバンス・メソッド」との比較についてお話し始めました。

「レッスン・プログラム」としては完全だが、ちょい芸術性に欠ける「バスティン」。
「ピアノ教室の為の音楽教育哲学」として至高だが、ちょい音楽レベルに限界がある「ギロック」。

では「リー・エバンス・メソッド」は、それらの欠点を解消した最高のメソッドなのか?といえば、正直、そんな事は全然ありません[猫]

敢えて言え「リー・エバンス」は「ギロック」の「教育哲学」と共有できる部分が多々あり、音楽レベル(深み)では「ギロック」とバルトークの中間と言った所。

「ジャズのコダーイ」と言えば、解る人には解るでしょう。

バスティンとギロックとリー・エバンスを使い分けています

そもそも僕自身、自分の教室「大阪梅田Kimball Piano Salon」で「バスティン」や「ギロック(マーサ・ミアー)」は使っています。

僕が「Lee Evans Society of Japan」代表だからと言って、生徒全員に「リー・エバンス・メソッド」を強制したい訳でも、他の「バスティン」や「ギロック」を否定したい訳でもなく、生徒さんの能力や指向に応じて使い分けています。

僕の考えでは、

バスティンが向く生徒さん;
・ジャズやクラシックの知識がない。知っているのは「エリーゼの為に」や「子犬のワルツ」位。
・ピアノや音楽経験がない。

ギロックやリー・エバンスが向く生徒さん;
・ジャズやクラシックを弾きたい。
・ピアノ経験はない~初級程度

ちなみに、ウチの教室には「ピアノもジャズも経験がない人対象のジャズ・クラシック・ピアノコース」なんて長ったらしい名称のコースもあります。ジャズ系の「リー・エバンス」とクラシック系の「トンプソン」等を組み合わせたプログラムですが、僕的にはお薦め!です。
(詳しくは別な機会に説明します)

では「子供の時にクラシック教室でブルグミュラー~ソナチネ程度まで習った。×十年ぶりにピアノを再開したいのだが、今度はジャズに挑戦したい」とか「小学生時分からクラシックピアノを習っているが、中学生になったのでジャズ・ポピュラーも習いたい」なんて人はどうか?

これは「ギロック」か「リー・エバンス」がお薦め!ですが、どちらが合うのか?を判断して頂けるように、両者の違いについてお話しましょう。

ギロック、リー・エバンス共に「ジャズ」と「ヒーリング」

「ギロック」「リー・エバンス」の共通点として、「ジャズ」と共に今で言う「ヒーリング・ミュージック」スタイルで作曲されている事が上げれます。

ちなみに「リー・エバンス」の「ヒーリング曲集」は僅か三冊しかなく、他の膨大な作編曲作品は「ジャズ」スタイルであり、いわゆる「教材としての曲集」だけでなく、スタンダード名曲等の編曲した「Lounge Jazz コレクション」は普通に「ピアノ編曲作品」として人気を誇ります。下記参照
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「リー・エバンス/Lounge Jazz コレクション」は教材用途のみならず、ショパンのワルツ同様に「ピアノ作品」として世界的な売れているので、エバンス先生としては敢えて「ヒーリング市場(?)」に進出する必要がなかったのかも知れません。

同じ「ヒーリング」曲集を比較すると、とりあえず「ギロック(ギロック先生とお弟子さん)派」が曲数で「リー・エバンス」を圧倒しますが、「作曲技法」については、一応「作曲の専門教育」を受けた僕の目から見れば「リー・エバンス」が圧倒的に高い、というのが偽らざる所。

「ギロック」は雰囲気こそ今っぽいが、作曲は、いわゆる「コード進行に基づく作曲法」に留まり、同じようなサウンドで聞こえて、例えばバッハやハイドンのような「立体的な構造」に欠けます。
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対して「リー・エバンス」は「モード奏法」と呼ばれるドビュシー(とバッハ)的な技法で作曲されている点はさて置き「立体的な構造」を有します。
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この音楽における「立体構造」とはなんぞや?という話になると、それだけでブログを三本くらい書かねばならないので説明は割愛しますが、ベートーヴェンは「立体的」、チェルニーは「非立体的」。

モーツアルトは「立体的」、サリエリは「非常
「楽曲分析」した場合、「ギロック」を分析できる人は少なくないのですが、「リー・エバンス」を本当に分析できる人は多くない筈です。

蛇足ながら。日本の「ライブハウス」に行くと、ジャズピアニストの多くが、「モード奏法」と称し、マッコイ・タイナーやチック・コリア風に弾き、つまり「左手は四度構成の和音を叩き、右手は意味がない音を沢山弾きまくる」とかをやっています。

しかし、これらは本物とは似て非なるものであり、本物の「モード奏法」は「リー・エバンス」の作品にある複合和声や複合リズムによって作られるものです、という話しはさて置き、少なくとも「作曲技法」という観点で「リー・エバンス」は「ギロック」の数段上と言えます。

では「ギロック」は駄目なのか?と言われれば、そんな事はないのが、音楽の面白い所ですね。

高速道路を140キロで巡航するならば「リー・エバンス」、街中を走るなら「ギロック」という例え

前回、「ギロック」は自動車メーカーで例えればダイハツやスズキのような「軽自動車専業メーカー」であり、「リー・エバンス」の「初級対象曲」は「大メーカーが作った軽自動車」だと表しました。

トヨタや日産のようなフルラインナップの大メーカーが「軽自動車」を作れば、基本的な技術には問題はないが、「商品」としては今ひとつ「楽しいもの」が作れないらしい。

その点、ダイハツやスズキのような「軽自動車メーカー」は「かゆい所に手が届く」商品企画力と共に、大した技術力は持ち、例えばトヨタが小型開発に際してはダイハツに技術を請う、とか、メルセデス・ベンツが、「軽自動車」を開発しようとして、ダイハツやスズキの軽自動車を購入し試行錯誤するも「こんな物は作れない!」と降参した、という話を何かで読みました。

結局、あっと驚くような新発明的な技術力はないが、既存の技術をとことん使い切り、メルセデスでさう作れない「商品」を実際に作ってしまうのが「軽自動車メーカー」の凄い所。

そして「ギロック」もしかり。

ちなみにメルセデスは「スマート」、同じくドイツのVWは「ルポ~up」という、実質「軽自動車」を開発しますが、これらを「軽自動車」感覚で購入した日本人の多くが後悔すると共に、改めて日本製「軽自動車」の良さを実感するそうな。

例えば「VW UP」で街中をちょこちょこ走ると、乗り心地もイマイチ、しかも運転しずらい、ところが高速道路を140キロで何時間も巡航する、となると国産の上級車に劣らぬ運転感覚と乗り心地で
「これは大したものだ」と感心する、と言われています。

音楽に話しを戻せば、同じ「ヒーリング曲集」でも、「ギロック」が国産軽自動車的だとすれば、「リー・エバンス」は「VW UP」のようなドイツメーカーが開発した「軽自動車」という感じ。

こういう言い方はあまりよろしくないが、「ピアノ初級~中級を習う生徒さん」というのは、いわば自動車免許を取って、近場の買い物や送迎用に車が欲しい、という感じで、「国産軽自動車的なギロック」が楽しめます。

そういう意味で「ヒーリング曲集」の「ギロックVSリー・エバンス」は「ギロックの勝利(?)」とも言えますが、そもそもスタイルが異なるので比較も二者択一も不要でしょうが、敢えて「リー・エバンス」の方が良い、という考え方もあります。

自動車で例えば経済的に余裕のあるお父さんが「娘さんが免許を取ったので車を買い与える」として、国産軽自動車は、その最初の一台の最有力候補ではありますが、お父さんによっては「娘にもヨーロッパの車文化に興味を持って欲しい」なんて思う方がいる訳です(多分)。

そうなると「ドイツ車入門」としてスマートやUPを買い与える訳ですが、当の娘さんは、何かの機会に運転した友人の国産軽自動車の運転のし易さに驚くと共に、同時に「深み」がなくツマラナイと感じるかも知れません。(蛇足ながらVW UPはボディサイズこそ軽自動車ながらエンジンは1リッターの普通車枠となります)

ドビュッシーに繋がる「リー・エバンス」、やっぱ「ギロック」な「ギロックのヒーリング」

自動車の場合、仮にVW UPやメルセデス・スマートで「ドイツ車入門」したからと言って、その次に上級車を購入する資金や理由があるとは限りませんが、「リー・エバンスのヒーリング」で入った人はドビュッシーに繋がります。

実際、リー・エバンス先生はそういう意図で「ヒーリング曲集」を作曲したと言われます。

対して「軽自動車」で入門したからと言って、次も「軽自動車」を購入するとは限らない点では同じですが、「ギロック」で「ヒーリング入門」した人は次も「ギロック」に留まる可能性が少なくないと思います。

というのは「ギロック」正確には「ギロック派」はウィリアム・ギロック先生を頂点として、グレンダ・オースティんやキャロリン・ミラー、キャサリン・ロリン等のそれぞれが一門を構える有能なお弟子さんがおり、ギロック先生の「教育哲学」は当然として「音楽の雰囲気」も「ギロック風」。

つまり「ギロック派」の何れかで入門した人は、「ギロック派」の音楽を習得するだけで十年以上費やし、下手すれば「生涯ギロック派だけを弾く」羽目になりそうです。

これはギロック先生が意図とは逆の結果なのですが「ギロック派の音楽だけで一生終わる」という事になりかねません。

「バスティン」でさえ、初級こそバスティン自身の作曲が多い物の、級が上がるに連れ、既成の「楽聖」の曲が増え、最終的にクラシックピアノの王道に繋がるようにできています。

「リー・エバンス」も同様で、ジャズならば「リー・エバンス」で入門しても、最終的には「ビル・エバンス(名前も音楽も似ていますが別人)」なりに繋がり、ヒーリング曲集がバッハやドビュッシーのようなクラシックに繋がります。

自動車ならば、例えダイハツのミラなりトヨタ・カローラを何代(台)も乗り継ごうが、「生活の道具」として割り切れば賢明な選択といえますが、「ピアノ音楽ライフ」で「生涯ギロック」というのは(実際らは他の作曲家の作品にも触れる筈でしょけど)最善の道とは言えないと思います。

「ギロックの魅力」として巷で言われる「易しく弾けるのに、派手に聴こえる」というのは、正に「軽自動車専門メーカーの軽自動車」という所ですが、これが一種の麻薬で、逆に「実際は物凄く難しいが、そう聴こえない」バッハのインベンションあたりは避けてしまう、という事が起こりかねません。

「リー・エバンス」で入ると、案外にバッハのインベンションも受け入れる土壌が作らます。

勿論、これは極端で大袈裟な話かもだとは思いますが、「生涯ギロックを楽しむ」のか、「リー・エバンスを経過して次に進む」のか、が「ギロック」と「リー・エバンス」の特性だと思います。

そして、正直言って、子供は別として大人で「初級の人」は十年後に「上級」に「進級」している可能性は低く、「初級~中級」のまま横にレパートリーを広げる、という人の方が多く、ならば「ギロック派を全て網羅する」というのも「ピアノ音楽ライフ」としてアリです。

北部NYのリー・エバンスと南部テキサスのギロックの違い
結局、「リー・エバンス」と「ギロック」の音楽違いは、「生き馬の目を抜くNY=リー・エバンス」と「保守的だがスローライフなテキサス=ギロック」の生き方の違いともいえますが、敢えて「優劣」を付ければ「リー・エバンス」の方が上でしょう。

しかし「ギロックの良さ」とは正に「優劣を争わない優しさ」にあると言えましょう。


という訳で「ヒーリング・ミュージック」における「リー・エバンス」と「ギロック」の「対決」は、そもそも主旨が違う両者を「対決」として比較するのが間違いでした、という結論になりました。

更に両者の「ジャズ」については、同じ「ジャズ」といえども、正に「音楽スタイル」が違うので比較できませんが、違いについては知っていて損はないので、次回、「リー・エバンスVSギロック」の「ジャズ編」をお送りします。

Lee Evans Society of Japan 代表 Kimball Piano Salon 大阪梅田主宰 藤井一成

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Kimball Piano Salon https://www.facebook.com/kimballpianosalon


















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リー・エバンス・メソッドはバスティンやギロック とどう違うのか?1 [Lee Evans Society]

僕が代表を務める旧称「リー・エバンス協会」、現在の名称「Lee Evans Society of Japan」が推進する「リー・エバンス・メソッド」について今日はお話します!

ギロックやバスティンと、リー・エバンスが違うのは「音楽性」

米国を中心に世界的に著名なリー・エバンスですが、日本では、例えばギロックやバスティンあたりと比較してもリー・エバンス先のメソッドは、なんともマイナーな存在です。
(僕の努力不足という事もありますけど[パンチ])

では「リー・エバンス・メソッド」はバスティンやギロックと比較してどうなのか?という事を考えてみましょう。

或る意味、完全にメソッドと言えるバスティンだが……

「バスティン」は、とても良くできた教材で、僕の教室でも「シニア以上の年代」で「これからピアノを始める」という生徒さん用の教材として重宝しています。(シニアに限定する訳ではありませんが、練習曲の進め方が、器用な日本人にはクドクドしく感じられるので、シニアならば丁度良い、というのが偽らざる所。)

「痒いところに手が届く」と言う点で「バスティン」は完全と言えましょう。

逆に敢えて欠点を指摘すれば、「中級」以上こそ課題曲がバッハやベートーヴェン等の既存の大作曲家の作品なので問題ありませんが、バスティン自身の作曲になる初級以下の課題曲は、これは悪くはないが「芸術性」や「精神性」があまり感じられません。

例えばバルトークの「ピアノ教則本」と言うべき「ミクロコスモス」はピアノ未経験の方を対象としますが、上級者やプロが自分のピアノ演奏や作曲能力を高める為にさえ使えます。

ミクロコスモスの一番なぞ「誰でも弾ける」と思うでしょうが、ピアノ演奏が本当に理解できるようになると、この曲を演奏する事はとても難しい事を発見します。

そういう「深み」はバスティン作曲の課題曲には全くなく、仮にバルトーク「ミクロコスモス」で学び始めた時のように「無意識に高い芸術性が培われる」という事は期待できそうにありません。

尤も、実際に「ピアノ入門~初心者レベル」の生徒さんの場合「楽譜に書かれた音符を鳴らすだけ」で精一杯であり、芸術性や精神性云々どころでないから、問題ないとも言えますけどね。

結論としては「何となく安っぽい感じ」もしないではないが「誰が習っても、誰が教えても、過不足なく学べる(教えれる)」という点で「バスティン」は完全な「レッスン・プログラム」と言えましょう。

ピアノ教室における「教育哲学の理想」を求めたギロック

「完全なレッスン・プログラム」である「バスティン」に対し、ギロックやお弟子さんのグレンダ・オーステインやキャサリン・ロリン他の「ギロック派」によるメソッドは本質的な異なります。

「バスティン」は「ピアノ教室で生徒はどうやって学ぶのか?」という「How to= ピアノレレッスン・プログラム」の最高峰であり、ピアノ講師にとっては「どうやって教えるのか?」という「マニュアル」の極地ともいえましょう。

それに対し「ギロック派」は「そもそも何を教える(学ぶ)べきか?」という「What'sピアノレッスン」、つまり「教育哲学」が先ずあり、ピアノ講師は、その実践者となります。 

実は、十年程前に、私のスタジオ( 大阪梅田にあるKimball Piano Salon)へ「日本ギロック協会」会長の安田裕子先生にお越し頂き、お話を伺った事があります。

僕が「リー・エバンス先生みたいな人」とは思えませんが(笑)、安田先生は「なるほどギロック先生みたいな人だな」という感じたのはオマケの話し。

安田先生から、「ギロック・メソッド」とは「曲集」ではなく「ピアノ教室での教育はどうあるべきか?」という「教育哲学だ」という内容のお話を伺いました。

これは、日本の巷に溢れる「楽しけりゃあ(=儲かれば)いい」という音楽教室チェーン店の経営方針とは真逆な立派なもので、影響を受けた 僕自身の指針になりました。

どうやって教えるか?ではなく、何を教えるか?を重視したギロック

「ギロック・メソード」については。僕ではなく「日本ギロック協会」さん等のサイトを観て頂くとして、大雑把に言えば、生徒の「創造性を育む」事を目的とします。

その真逆が前述の「楽器メーカーの音楽教室メソッド」で万事「バターンの組み合わせ」で問題解決し、その速度を上げる事が「進歩」と考えている点で「公文式」の塾と同じ。

「公文式」こそが「受験勉強」対策としては効果を発揮するも、これが「学問」なのか?と言われれば違うでしょう、としか言いようがないシステムですが、これは「公文式」が悪い訳でなく、日本の学校教育自体が間違っているから、公文も「偏差値を上げる事」でしか成立しなくなった、のでしょう。

そうではなく「自ら問う」子供や大人を育てるのが「ギロック・メソード」な訳で、「頭の中にパターンを叩き込む」のを恐れるあまり、僅かな「挿絵」も用いず、全て文字で説明する、という徹底。

ギロック先生の時代に造られたのが「ディズニー映画」であり、これによって白雪姫なりのイメージが「パターン化」されてしまい、自分で白雪姫なりのイメージを「創造する努力」ができない「怠け者」が増大しました。

ちなみに「ディズニー」の手法を取り入れたのがヒトラー率いるナチス・ドイツやスターリン率いるソ連ですが、本家の米国でもルーズベルト政権が「ディズニー」手法で大衆を扇動します。

よくよく考えれば、おかしな話だらけなのが、これら米独ソの扇動者たちの話ですが、「考える事」ができなくなってしまった頭脳には判断がつかない、という訳です。

音楽に話を戻せば、「教え方がうまい先生」というのは大変結構ですが、実は「教え方がうまい」とは「物事を単純化し、本当は重要だが、理解し難い部分を切り捨て」る事が器用なだけ、という事が往々にしてあります。

ギロックの本に、僕が書いているような事を書いているのかどうか知りませんが「ギロック・メソード」の主旨はこういう事なんですよ。

という訳で、なかなか理想的な「教育哲学」を提唱する「ギロック」ですが、敢えて欠点をいえば、
「音楽レベルに限界がある」という事でしょう。

ギロックの魅力と限界

ウィリアム・ギロック先生は、1993年に70代で亡くなられる迄、終始一貫して「ピアノ教室での音楽教育の向上」に尽力されました。

「ギロック」の作品の全ては「ピアノ入門~中級程度」を対象としましたが、これはギロック先生が若い頃、お師匠から「君は、ピアノ初心者向けの作曲に徹した方が良い」とアドバイスを受けたからだそうです。

これを悪意で解釈すれば、ギロック先生は「上級~プロピアニスト対象の作曲がイマイチだった」となりますが、誤解のないように言えば、これはギロック先生の「適性」であり「能力の限界」ではない、と思います。

つまり自分自身が「中級」程度だから「初歩以下」対象の作曲しかできない、という前述の「子供がパターンを組み褪せてでっち上げた曲」のようなあり方ではなく、「上級以上対象の作曲」をしても、あまり良くなかった、という「適性」の問題なのでしょう。

ちなみに前述の「作曲者が中級レベルだから初級向けの曲しか作れない」というのは論外として、あるレベル以上に作曲技能を習得すると、「難解な曲を作る事」は容易だが、逆に「初心者でも弾ける易しい曲」の作曲は困難に感じてしまいます。

これは僕が陥る悪癖だが「長文は書けるが、短文に全てを収めるのが困難」というの同じで、背景には膨大な響きを持ちつつ、それを「初心者でも弾ける」ようにまとめてしまうのは至難の業です。

実際、そういう事ができるのは、僕よりも、少なく見積もって数十段に上のレベルであるベートーヴェンやバッハ、ハチャトリアンやバルトークのような楽聖であり、彼らは「難解な曲」も作るが、同じように密度の高い「初心者向けの曲」もドンドンを作れてしまいます。

僕は極たまに頼まれる「クラシックピアノ・レッスン」用教材として、中村菊子先生の「四期のメソード」なるものを使っていますが、例えば「近現代」について、この本によってハチャトリアンやプロコフィエフ、シュスタコービッチが「楽聖」なのだと知りました。

それまでバルトークが凄い作曲家だとは認識してしまいたが、ハチャトリアン以下の「ソ連の作曲家」の偉大さも認識しました。もっとも、この本の多数含まれる同じくソ連の別な作曲家の作品は大してものではありませんが…。

ギロックは軽自動車メーカーのようなもの

ギロックは、正直言って、バルトークやハチャトリアンのような「楽聖」と比較すれば数段落ちる、と言わざるを得ませんが、それでも「ピアノ教育」には偉大な貢献を為され、かつ膨大な数の「初心者向け名曲」を作曲された事も素晴らしい業績でしょう。

ギロックに「初心者向け曲」しかないのは、いわば自動車メーカーで言えば、ダイハツやスズキが「軽自動車専門メーカー」なのと同じ理由でしょう。

後述するリー・エバンス先生が米国メジャー・レコード会社の編曲家やピアニストとしてキャリアを始め、作編曲家としては、いわばトヨタや日産のようなフルラインナッブではないが、ホンダやマツダのような「中級車以下ではトップー」という所。

ちなみに「軽自動車専門メーカー」のダイハツやスズキに「技術力」がないのか、といえば、そんな事はなく、例えば、大メーカーであるトヨタがダイハツを傘下に収めた際、小型車を新設計する際、どうしても解決できなかった問題あったのを、ダイハツの技術者が易々と解決したらしい。

それどころか、以前、メルセデス・ベンツが軽自動車を開発すべく、日本の軽自動車を買い集めて研究するも「こんな技術的に凄いものは作れない!」と降参してしまった、とかダイハツやスズキの技術力の高さに関する逸話に欠きません。

実際、「ピアノ初心者用」の小品同士を比較すると、リー・エバンス作品はいわば「大メーカーが作った軽自動車」みたいで技術的には良いが商品魅力がさっぱりし過ぎなのに対し、対してギロック派の作品は、ダイハツやスズキの軽自動みたいに技術と商品性が満載。

実際にはギロック派り「作曲技法」としては「普通」ですが、「作品」としての魅力の高さは凄い。

またギロック派の教材だけで「ピアノレッスン」が完結できる、という点でバスティンに近い訳ですが、バスティンは本人の作曲作品の他にチェルニーからバッハやショーマンに至る迄、様々な作曲家の作品が用いられるのに対し、バスティでは全てバスティン派しかない、というのが欠点といえなくもないでしょう。

なんて事を書いていると時間が来ました。

次回はギロックとリー・エバンスの違いについてお話します。

つづく

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大阪梅田芸術劇場北向い Kimball Piano Salon 主宰 藤井ガスなり 
http://www.eonet.ne.jp/~pianosalon/Kimball_Piano_Salon
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