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リー・エバンス・メソッドはバスティンやギロック とどう違うのか?1 [Lee Evans Society]

僕が代表を務める旧称「リー・エバンス協会」、現在の名称「Lee Evans Society of Japan」が推進する「リー・エバンス・メソッド」について今日はお話します!

ギロックやバスティンと、リー・エバンスが違うのは「音楽性」

米国を中心に世界的に著名なリー・エバンスですが、日本では、例えばギロックやバスティンあたりと比較してもリー・エバンス先のメソッドは、なんともマイナーな存在です。
(僕の努力不足という事もありますけど[パンチ])

では「リー・エバンス・メソッド」はバスティンやギロックと比較してどうなのか?という事を考えてみましょう。

或る意味、完全にメソッドと言えるバスティンだが……

「バスティン」は、とても良くできた教材で、僕の教室でも「シニア以上の年代」で「これからピアノを始める」という生徒さん用の教材として重宝しています。(シニアに限定する訳ではありませんが、練習曲の進め方が、器用な日本人にはクドクドしく感じられるので、シニアならば丁度良い、というのが偽らざる所。)

「痒いところに手が届く」と言う点で「バスティン」は完全と言えましょう。

逆に敢えて欠点を指摘すれば、「中級」以上こそ課題曲がバッハやベートーヴェン等の既存の大作曲家の作品なので問題ありませんが、バスティン自身の作曲になる初級以下の課題曲は、これは悪くはないが「芸術性」や「精神性」があまり感じられません。

例えばバルトークの「ピアノ教則本」と言うべき「ミクロコスモス」はピアノ未経験の方を対象としますが、上級者やプロが自分のピアノ演奏や作曲能力を高める為にさえ使えます。

ミクロコスモスの一番なぞ「誰でも弾ける」と思うでしょうが、ピアノ演奏が本当に理解できるようになると、この曲を演奏する事はとても難しい事を発見します。

そういう「深み」はバスティン作曲の課題曲には全くなく、仮にバルトーク「ミクロコスモス」で学び始めた時のように「無意識に高い芸術性が培われる」という事は期待できそうにありません。

尤も、実際に「ピアノ入門~初心者レベル」の生徒さんの場合「楽譜に書かれた音符を鳴らすだけ」で精一杯であり、芸術性や精神性云々どころでないから、問題ないとも言えますけどね。

結論としては「何となく安っぽい感じ」もしないではないが「誰が習っても、誰が教えても、過不足なく学べる(教えれる)」という点で「バスティン」は完全な「レッスン・プログラム」と言えましょう。

ピアノ教室における「教育哲学の理想」を求めたギロック

「完全なレッスン・プログラム」である「バスティン」に対し、ギロックやお弟子さんのグレンダ・オーステインやキャサリン・ロリン他の「ギロック派」によるメソッドは本質的な異なります。

「バスティン」は「ピアノ教室で生徒はどうやって学ぶのか?」という「How to= ピアノレレッスン・プログラム」の最高峰であり、ピアノ講師にとっては「どうやって教えるのか?」という「マニュアル」の極地ともいえましょう。

それに対し「ギロック派」は「そもそも何を教える(学ぶ)べきか?」という「What'sピアノレッスン」、つまり「教育哲学」が先ずあり、ピアノ講師は、その実践者となります。 

実は、十年程前に、私のスタジオ( 大阪梅田にあるKimball Piano Salon)へ「日本ギロック協会」会長の安田裕子先生にお越し頂き、お話を伺った事があります。

僕が「リー・エバンス先生みたいな人」とは思えませんが(笑)、安田先生は「なるほどギロック先生みたいな人だな」という感じたのはオマケの話し。

安田先生から、「ギロック・メソッド」とは「曲集」ではなく「ピアノ教室での教育はどうあるべきか?」という「教育哲学だ」という内容のお話を伺いました。

これは、日本の巷に溢れる「楽しけりゃあ(=儲かれば)いい」という音楽教室チェーン店の経営方針とは真逆な立派なもので、影響を受けた 僕自身の指針になりました。

どうやって教えるか?ではなく、何を教えるか?を重視したギロック

「ギロック・メソード」については。僕ではなく「日本ギロック協会」さん等のサイトを観て頂くとして、大雑把に言えば、生徒の「創造性を育む」事を目的とします。

その真逆が前述の「楽器メーカーの音楽教室メソッド」で万事「バターンの組み合わせ」で問題解決し、その速度を上げる事が「進歩」と考えている点で「公文式」の塾と同じ。

「公文式」こそが「受験勉強」対策としては効果を発揮するも、これが「学問」なのか?と言われれば違うでしょう、としか言いようがないシステムですが、これは「公文式」が悪い訳でなく、日本の学校教育自体が間違っているから、公文も「偏差値を上げる事」でしか成立しなくなった、のでしょう。

そうではなく「自ら問う」子供や大人を育てるのが「ギロック・メソード」な訳で、「頭の中にパターンを叩き込む」のを恐れるあまり、僅かな「挿絵」も用いず、全て文字で説明する、という徹底。

ギロック先生の時代に造られたのが「ディズニー映画」であり、これによって白雪姫なりのイメージが「パターン化」されてしまい、自分で白雪姫なりのイメージを「創造する努力」ができない「怠け者」が増大しました。

ちなみに「ディズニー」の手法を取り入れたのがヒトラー率いるナチス・ドイツやスターリン率いるソ連ですが、本家の米国でもルーズベルト政権が「ディズニー」手法で大衆を扇動します。

よくよく考えれば、おかしな話だらけなのが、これら米独ソの扇動者たちの話ですが、「考える事」ができなくなってしまった頭脳には判断がつかない、という訳です。

音楽に話を戻せば、「教え方がうまい先生」というのは大変結構ですが、実は「教え方がうまい」とは「物事を単純化し、本当は重要だが、理解し難い部分を切り捨て」る事が器用なだけ、という事が往々にしてあります。

ギロックの本に、僕が書いているような事を書いているのかどうか知りませんが「ギロック・メソード」の主旨はこういう事なんですよ。

という訳で、なかなか理想的な「教育哲学」を提唱する「ギロック」ですが、敢えて欠点をいえば、
「音楽レベルに限界がある」という事でしょう。

ギロックの魅力と限界

ウィリアム・ギロック先生は、1993年に70代で亡くなられる迄、終始一貫して「ピアノ教室での音楽教育の向上」に尽力されました。

「ギロック」の作品の全ては「ピアノ入門~中級程度」を対象としましたが、これはギロック先生が若い頃、お師匠から「君は、ピアノ初心者向けの作曲に徹した方が良い」とアドバイスを受けたからだそうです。

これを悪意で解釈すれば、ギロック先生は「上級~プロピアニスト対象の作曲がイマイチだった」となりますが、誤解のないように言えば、これはギロック先生の「適性」であり「能力の限界」ではない、と思います。

つまり自分自身が「中級」程度だから「初歩以下」対象の作曲しかできない、という前述の「子供がパターンを組み褪せてでっち上げた曲」のようなあり方ではなく、「上級以上対象の作曲」をしても、あまり良くなかった、という「適性」の問題なのでしょう。

ちなみに前述の「作曲者が中級レベルだから初級向けの曲しか作れない」というのは論外として、あるレベル以上に作曲技能を習得すると、「難解な曲を作る事」は容易だが、逆に「初心者でも弾ける易しい曲」の作曲は困難に感じてしまいます。

これは僕が陥る悪癖だが「長文は書けるが、短文に全てを収めるのが困難」というの同じで、背景には膨大な響きを持ちつつ、それを「初心者でも弾ける」ようにまとめてしまうのは至難の業です。

実際、そういう事ができるのは、僕よりも、少なく見積もって数十段に上のレベルであるベートーヴェンやバッハ、ハチャトリアンやバルトークのような楽聖であり、彼らは「難解な曲」も作るが、同じように密度の高い「初心者向けの曲」もドンドンを作れてしまいます。

僕は極たまに頼まれる「クラシックピアノ・レッスン」用教材として、中村菊子先生の「四期のメソード」なるものを使っていますが、例えば「近現代」について、この本によってハチャトリアンやプロコフィエフ、シュスタコービッチが「楽聖」なのだと知りました。

それまでバルトークが凄い作曲家だとは認識してしまいたが、ハチャトリアン以下の「ソ連の作曲家」の偉大さも認識しました。もっとも、この本の多数含まれる同じくソ連の別な作曲家の作品は大してものではありませんが…。

ギロックは軽自動車メーカーのようなもの

ギロックは、正直言って、バルトークやハチャトリアンのような「楽聖」と比較すれば数段落ちる、と言わざるを得ませんが、それでも「ピアノ教育」には偉大な貢献を為され、かつ膨大な数の「初心者向け名曲」を作曲された事も素晴らしい業績でしょう。

ギロックに「初心者向け曲」しかないのは、いわば自動車メーカーで言えば、ダイハツやスズキが「軽自動車専門メーカー」なのと同じ理由でしょう。

後述するリー・エバンス先生が米国メジャー・レコード会社の編曲家やピアニストとしてキャリアを始め、作編曲家としては、いわばトヨタや日産のようなフルラインナッブではないが、ホンダやマツダのような「中級車以下ではトップー」という所。

ちなみに「軽自動車専門メーカー」のダイハツやスズキに「技術力」がないのか、といえば、そんな事はなく、例えば、大メーカーであるトヨタがダイハツを傘下に収めた際、小型車を新設計する際、どうしても解決できなかった問題あったのを、ダイハツの技術者が易々と解決したらしい。

それどころか、以前、メルセデス・ベンツが軽自動車を開発すべく、日本の軽自動車を買い集めて研究するも「こんな技術的に凄いものは作れない!」と降参してしまった、とかダイハツやスズキの技術力の高さに関する逸話に欠きません。

実際、「ピアノ初心者用」の小品同士を比較すると、リー・エバンス作品はいわば「大メーカーが作った軽自動車」みたいで技術的には良いが商品魅力がさっぱりし過ぎなのに対し、対してギロック派の作品は、ダイハツやスズキの軽自動みたいに技術と商品性が満載。

実際にはギロック派り「作曲技法」としては「普通」ですが、「作品」としての魅力の高さは凄い。

またギロック派の教材だけで「ピアノレッスン」が完結できる、という点でバスティンに近い訳ですが、バスティンは本人の作曲作品の他にチェルニーからバッハやショーマンに至る迄、様々な作曲家の作品が用いられるのに対し、バスティでは全てバスティン派しかない、というのが欠点といえなくもないでしょう。

なんて事を書いていると時間が来ました。

次回はギロックとリー・エバンスの違いについてお話します。

つづく

教師.jpg


大阪梅田芸術劇場北向い Kimball Piano Salon 主宰 藤井ガスなり 
http://www.eonet.ne.jp/~pianosalon/Kimball_Piano_Salon
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