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ジャズの歴史3/元奴隷だった人達が創成したブルースや黒人霊歌 [独断による音楽史]

前回は米国南部ニューオリンズの「奴隷農園の主人」だった多数の「クレオール」と呼ばれた「混血黒人」についてお話しました。

「混血児」が生まれる時点では、主人である白人男性と奴隷であった黒人女性との間で性的暴力があった事は確かですが、当時のニューオリンズが、元フランス領だった事から「フランス式の法律」が適用され、生まれて来た「混血児」に関しては、いわば「白人(当時の概念では白人というよりはカソリック教徒のフランス人=人間)」としての扱いを受けました。

その結果、遺産を引き継いだ「クレオール」達は、代が下がり、農園の繁栄に従って中上流階級の素養と教育を受け、ニューオリンズの市会議員の席の半分を占めるに至ります。

ところが南北戦争の南軍の敗戦により、ニューオリンズにも米国北部の価値観や法律が適用され、「クレオール」は「黒人」という扱いになると共に、巧妙に仕組まれた法律により、議員や銀行家と行った政経の中心から追放されてしまい没落します。

その結果、女性は、今でいう水商売や風俗業を、男性は、没落以前は「フランス式の教育」を受けた事もあり、ピアノやバイオリン等が弾ける人が少なくなく、「売春宿のピアノ弾き」に転じ、男女共、荒稼ぎする人が現れます。悲惨な転落を遂げた人も少なくない筈ですが……・

ところで「売春宿のピアノ弾き」になった「クレオール」達ですが、「ラグタイム」と呼ばれる音楽を創成しますが、最初から「ラグタイム」が弾けた訳でも、最後まで「ラグタイム」ばかりを弾いていた訳でもありません。

状況に応じて当時の流行歌やオペラ等クラシックの有名なメロディー、ポルカやセレナーデ等、要するに「BGM」として使えそうなものはなんでも「即興で編曲」して演奏していた筈です。

その中で当時、流行っていた軍楽隊の音楽である「マーチ」をピアノ編曲して演奏する内、「マーチのピアノ版」とでも呼ぶべきスタイルである「ラグタイム」スタイルが作られました。 

ピアノ発表会の定番でラグタイム名曲の一つ「エンターテイナー」を作曲したスコット・ジョプリンでは「クレオール」ではなく、いわば「ラグタイム」第二世代ともいうべき、元「奴隷黒人」の末裔ですが、「ラグタイム」の音楽スタイルに関しては彼の音楽をイメージすれば良いでしょう。

ところで気になる(笑)、「売春宿のピアノ弾き」のギャラを含めた生活レベルですが、凄腕のラグタイムピアニストともなれば、一晩に今のお金で十万~三十万円くらい稼ぎ、且、その内訳はピアノ演奏に対するチップのみならず、何人か抱えていた女性から貢がれたお金……つまり「ヒモ稼業」…も含まれていた訳で、羨ましいというか(笑)。

尤も、そうやって荒稼ぎしたピアノ弾きも「ラグタイム」のピーク以前に、南部ニューオリンズの水商売~風俗産業の全盛期を過ぎた頃から落ち始め、最後はロクな事にならず自業自得する人生に終わったようです。

尚「クレオール」が創成した「ラグタイム」に対し、奴隷時代に「クレオール」の主人から酷い目にあった元「奴隷」だった人達が創成したのが「ブルース」と「黒人霊歌」です。


今更言うまでもなく悲惨だった「奴隷黒人」の生活ですが、性的暴力の被害も半端でない

或る意味、「クレオール」と反対の立場にあった「奴隷」だった黒人達は、南北戦争後の「奴隷解放令」によって、以前よりは「人権」が保障された生活になったようです。

「奴隷時代」の黒人には「室内奴隷」と呼ばれる召使や料理人等の家の中の仕事をあてがわれた者と、綿花摘みや炭鉱掘り等の屋外労働をあてがわれた「屋外奴隷」と呼ばれた者とがいました。

勿論、「屋内奴隷」の方がマシなのですが、主人から見て「屋内奴隷」への抜擢に際しては、いわゆる「職業適性」と共に「主人に反抗しない」点も重視された筈です。
農園が大きくなるに従い、女性は「屋内労働」に、男性は「屋外労働」に分かれた筈ですが、女性の場合、主人の性暴力を受ける事は珍しくなく、また性暴力を行いやすいように「屋内労働」に配する場合もあったようです。

南部農園の「奴隷」と、刑務所の囚人が異なるのは、奴隷同士で男女の実質的な「結婚」が認められた点です。

尤も「結婚」後に「夫婦」として一緒に生活できる場合もあれが、主人の方針で週末の「通い婚」しか認めない場合もあったようですが、概ね好き合った者同士が「結婚」を願い出れば許されたようです。

それは「結婚」によって「奴隷」が精神的に安定し、労働に励む事が期待できたのと、最も重要な点は、「結婚」即ち「出産」によって生まれた子供は「奴隷」として扱う事ができたからです。

「クレオール」についてお話した祭、「白人主人」と「黒人奴隷」との「混血児」は、主人の側、つまり「白人」扱いされました(何度も書きますが、当時のニューオリンズでは「白人」「黒人」という人種分類ではなく「カソリック教徒」か「それ以外」という分類が重視されました。)

従って「混血児」を「奴隷」として労働に就かせる事は通常ありませんでしたが、「奴隷同士の間に生まれた子供」は心置きなく「奴隷」として扱う事ができました。

当時、「奴隷」の「結婚」は法的なものではなく、事実婚でしかなかったのは、そもそも「奴隷」には「人権」がなく、耕運機や掃除機のような「物」扱いでした。

従って他人が自分の「奴隷」を傷つけた場合は「弁償」を要求する事はあっても、自分が「奴隷」を傷つけようが殺そうが、法的には全く問題がありませんでした。

また「奴隷」として生まれた子供は、そのまま自分が使っても良し、「奴隷市場」で売っても良し、いずれにせよ、「奴隷として生まれる子供」が多いほど、主人には好都合でした。

そして生まれた子供を、主人を「売る」ために奴隷夫婦から取り上げたとしても、夫婦には何ら文句が言えませんでした。

尤も子供を「売り飛ばす」よりも、そのまま「奴隷」として育てる場合が多かったのは、人道的な理由からではなく、「農園の労働者」というのは頭数が多い方が良く、しかも「奴隷」だから賃金を払う必要がない自給自足の生活。

幼児は無理でも、少年の年齢になれば、雑用の一つでもできされば生産性は上がる訳で、奴隷の「家族ぐるみ」で使役させられた訳です。

対して北部が「奴隷廃止」を打ち出せたのも人道的な理由からではなく、例えば「工場労働者」の場合、労働者である男性にのみ賃金を払えば済む、仮に「奴隷制」で家族ぐるみを養う方が効率が悪かったからに過ぎません。

ところで南部の「奴隷農園」ですが、旧フランス領だったニューオリンズ、或いはフランスやスペイン系等の「カトリック教徒」の主人の元では、カトリック教会の方針やフランス式の法律に基づき、「白人主人と黒人奴隷」の間の「混血児」は「白人(=フランス人)」扱いされました。対して英国系の奴隷農園では北部の価値観や法律が適用され「白人主人と黒人奴隷との混血児」は「奴隷」とされました。

恐らく、「奴隷」とされたにせよ、半分は自分の血統が入っている訳で、最も過酷な「屋外労働」ではなく「屋内労働」に従事させるか、逆に早々と「売り飛ばしてしまう」事例も少なくなかったようです。

全く「人権」が認められなかった「奴隷黒人女性」の悲惨さはいうに及びませんが、「主人」の妻である白人女性の精神的な性被害も甚大でした。

キリスト教徒と言いますか「文明人」の常識として「一夫一妻制」であり、夫による妻以外の女性との性交渉は忌まわしいものとされていましたが、相手が「奴隷黒人」であれば、認められてしまう。

例えば、現代の日本で、夫が会社に行けば、部下の女性に対し問答無用で性暴力を行っても許される、被害者は部下の女性のみならず、夫の妻も含まれるといえましょう。

「奴隷農園」を描いた映画で、「悪役」である無慈悲な「白人主人」が登場しますが、或いは、ある奴隷女性には「優しい」主人よりも、夫人の方がギスギスして無慈悲な人に設定されている場合もあります。

これは夫人が「奴隷」に対し残虐な性格であったから、というよりは、夫の「公然となされる浮気」に苦しめられたからでしょう。

「クレオール」が「奴隷黒人」に対し、殊更に残酷だったのは、なまじ親しみを覚え、「クレオール」の息子や娘が「奴隷黒人」とデキてしまい、再度の「クレオール」を生み出す事で、自らの特権が削がれる事を恐れたからです。

という訳で、とにかく悲惨な状況にあったのが「奴隷解放令」発令以前の「奴隷黒人」であった事は確かで、発令後も、実際には他に行くところがなく、そのまま農園に留まった黒人が大多数だった、とはいえ、性暴力についての「人権」の状況が改善されたからです。


黒人音楽が居酒屋と教会で生まれた

奴隷解放令の発令後、それまで「奴隷」だった人達の生活は以前と比較してマシになった筈ですが、例えばロシア革命のように、それまで奴隷だった人達が、主人の財産を横取りして豊かになった、という事は全くなく、「人権」の若干の回復と共に雇用形態が現金あるいは物による「賃金労働」に変わりました。

或いは、「職業選択の自由」が若干広がり、農園から離れ、北部資本で作られた工場に労働者として働きに出る事が可能となります。

その結果、元「奴隷黒人」同士で若干の「貧富の差」が現れ、貧乏な農園で最低賃金で使役されるよりは、マシな賃金が貰える工場で働く方がいい、という人が増えました。

その結果、以前の「奴隷時代」と違い「嫁の来てがない黒人」も現れ、また現金収入を獲た事で、それまでの「自給自足」生活ではなく、今でいう飲食店や衣服や生活品を売る商店が出現し、また、それらを起業できる資本を持てた黒人と、そうでない黒人との間に「貧富の差」が広がります。

「奴隷時代の方が良かった」とは誰も思わないにせよ、「解放後」も新たな悩みが続発し、結局、稼いだ賃金で、今でいう居酒屋に集まって騒いでは憂さ晴らしをする、という「不真面目(?)な生活」に落ちてしまう人も現れます。

その結果、生まれたのが後に「ブルース」という歌手によって歌われた音楽です。

何度か書きましたが「奴隷が綿花摘みの苦しみを歌ったブルースが生まれた」という説は、実はありそうでない話であり、むしろ「奴隷解放後」にこそ「ブルース」が生まれたと考えられます。

当初は今でいう居酒屋で「歌が上手い人」が声を披露する程度だったようですが、段々と「歌手」を職業にする人が現れます。

「ブルース」は確かに「悲しみ」や「怒り」が根底にあるにせよ、いわば大阪の漫才の如く、面白く、皮肉があり、何よりも「芸人」としての力量が必要でした。

果てして、より多くの人から拍手を貰えた人が、より多くの「綿花を摘む苦しみ」を経験したのかどうか不明ですが、「芸人」あるいは演奏家としての「才能」があった事は確かです。後世の人は、やたらと黒人の「苦しみ」について語りたがりますが、「才能」や「努力」について無視したがりますが、より良い「ブルースマン」は「苦しみ」以上に「才能」と「努力」があった、と考えるべきでしょう。

ブルースとラグタイムを禁じたキリスト教会

奴隷解放後、黒人の「人権」が回復すると共に、若干の経済生活と自由が始まりました。
私が「ブルースは綿花摘み作業では生まれない」と想うのは、「苦しみ」や「怒り」を訴える歌なぞ、主人が許す筈がなく、ある程度、自由に表現できるようになったのは、「解放後」だと思えるからです。

それにしても「過激な表現」は不可能だった訳で、大阪の漫才のような、皮相な表現で、泣き笑いを誘った訳です。

ところで、当時の「ブルース」について、「奴隷黒人」の指導者的立場であった「キリスト教会」は、「ブルース」自体も、「居酒屋で乱痴気騒ぎをするような生活」も否定しました。

「クレオール」の所で書きましたように、南部ニューオリンズはフランス領だった事からキリスト教「カトリック」の影響が強く、「カトリック」の基では「クレオール」は「人間=カソリック教徒」扱いでしたが、「奴隷黒人」は人間扱いされませんでした。

従ってカトリック教会が「奴隷黒人」に対しキリスト教を布教する、という事はありませんでしたが、南北戦争の南軍の敗戦後、北部から沢山の「キリスト教プロテスタント教会」が進出し「黒人教会」を多数設立しました。

奴隷解放以前から、地域によっては「キリスト教プロテスタント教会」の勢力が強く、主人共々「奴隷黒人」もプロテスタントに強制的にき入信させられ「黒人教会」に通わされましたが、当時の「黒人教会」が設けられ目的は「正しい奴隷の在り方」を教える為でした。

同時に「黒人教会」内部の進化により、奴隷制度の時代から「黒人の地位向上」という発想と、その指導的立場を担うようになりました。

南北戦争後に、南部にも「キリスト教プロテスタント」の「黒人教会」が設立され、多くの元「奴隷」だった人が教会に通うようになりますが、それは「信仰」目的と共に、「学問」を習得する為でもありました。

「黒人教会」の考え方の基本として「黒人も、しっかりと知性や教養を身に着ければ、白人からも信頼され、やがては同等の人間として扱って貰える」があり、これは一歩間違えると「黒人である事」を止め、「白人」と同化する、という事になります。

尤も当時、明治維新を迎えた日本も、日本の国際的地位を向上させる方法として、日本的なものを排し、只管に欧米の生活スタイルを取り入れたりした訳で、「黒人教会」の考え方が奇妙だった訳ではありません。

ところで「黒人教会」が「黒人の地位向上」の為に、「黒人らしさ」の放棄と共に、勤勉さや清潔さを掲げますが、その真逆に位置したものが「ブルース」や居酒屋でした。

言葉がないので「居酒屋」と書きましたが、当時は飲食だけでなく、売春婦がたむろし、色々な犯罪も行われ、あまり健全な場所ではなかったのと、「ブルース」の本質である「苦しみ」や「怒り」或いは「皮肉」というものは「黒人教会」の基本方針と相容れぬものでした。

もう一つ「黒人教会」が否定した「黒人音楽」が「ラグタイム」でした。

「ラグタイム」が元々「カトリック教徒」である「クレオール(混血黒人)」から生まれた事は問題ではなく、また「ラグタイム第二世代」ともいえる、後世に「ラグタイムの王」と呼ばれたスコット・ジョプリン他は「クレオール」ではなく、「奴隷黒人」家庭の出身です。

「黒人教会」が「ラグタイム」を問題視したのは、「ラグタイム」が元々「売春宿の音楽」として発達した事と、「黒人的」であるからでした。

一方、「黒人教会」が推奨した音楽は「黒人霊歌」でした。

(ジャズの歴史4/黒人霊歌に続く)


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ジャズの歴史2/ラグタイムを創生したクレオール [独断による音楽史]

前回から「ジャズの歴史」と密接な「米国黒人の歴史」についてお話していました。

19世紀半ばの「南北戦争のリンカーン率いる北軍の戦勝により奴隷解放宣言が発令」され、米国には法的にも「奴隷」とされたアフリカ系の人達が多数存在した事は誰でも知っていると思います。

尤も「奴隷解放」以前にも、主人が合法的に「解放」したり、逃亡し、合法的に「自由黒人」と認められた人達がいた事は案外知られていません。「自由黒人」の大多数は米国北部のニューヨークやワシントン等に移住し、教経済的にも社会的にも成功し、高等教育を受ける人もいました。

これらの「知的階級」のシンボルの一つが「キリスト教黒人教会の牧師」さん達でした。

ちなみに、この時点で「黒人教会」を設立したのはキリスト教の「プロテスタント系」で、知的階級のみならず「奴隷黒人」にも多大な布教を展開しました。

「黒人教会」が「奴隷黒人」にも布教したのは、黒人牧師さんの意志もありましょうが、奴隷の主人であった「白人」側の管理方針でもありました。

つまり「キリスト教プロテスタント教会」はうがった見方をすれば黒人に対し「正しい奴隷の生き方」なるもの、つまり主人に反抗せず勤勉に働く等の支配管理する側からは好ましい指針であった訳です。

但し、「プロテスタント教会」の黒人指導者達は、大人しく「支配される」事でも、逆に「反抗する」事でもない別な「黒人の地位向上」として、知性と勤勉さで、白人から「黒人」が「同じ人間である」事を認めさせる、という努力をしました。

半世紀以上後の話になりますが、暗殺された有名なマーチン・ルーサー・キング牧師の考え方は、この「白人に認めて貰う」という事による地位向上にあった、と言えます。

ちなみに、これも前回書きましたが、キング牧師とは一見真反対に見えた同時代の、これも暗殺されたマルカムXはキリスト教自体を否定し、「黒人の宗教」としてイスラム教への回帰と共に、「白人から分離した黒人の国を米国内に作る事」を提唱。その為には暴力も厭わない、という方針でした。

一見すれば「平和的」なキング牧師と、「暴力的」なマルカムXは真反対ですが、実際には夫々の晩年には両者は協調します。要するに「黒人の位置向上=権利の獲得」という「目的」は同じだから、というのと、「キング派とマルカム派とで、黒人同士で紛争する事」こそ、二人の共通の敵ともいえた「米国の支配層」の戦略だと見抜き、敢えてキングとマルカムは協調すると共に、白人に対しても友愛を訴え、多くの白人が二人に賛同したのでした。

そして、それこそが、「米国支配層」の忌避したい所であり、それ故に二人共、暗殺されてしまった訳です。

それはさて置き、「キリスト教プロテスタント教会」が黒人の権利のみならず、知的レベルの向上に貢献した事は疑うべきもない事ですが、キリスト教のもう一方である「カソリック教会」はどうなのか?という話が、次の「南部のクレオール(混血黒人)」に繋がります。

「奴隷農園の主人」だった「混血黒人(クレオール)」

前述のように「奴隷解放令発令」以前の「黒人(アフリカ系米国人)」の全員が「奴隷」だった訳ではなく、北部を中心に「自由黒人」も多数存在しました。

そして「奴隷黒人」とも、そこから何らかの努力で脱出した「自由黒人」とも異なるいわば第三の流れとして「クレオール」と呼ばれる混血の黒人(白人)が南部ニューオリンズには存在しました。

南部ニューオリンズ州は元々フランス領でしたが、19世紀初頭に当時のナポレオン三世が米国に譲渡した事で「アメリカ合衆国」に編入されましたが、編入後もフランスの文化のみならず法律が継承されました。(実は現在でもニューオリンズの公用語は英語とフランス語)

「フランス植民地時代の法律」は、実質的にフランスの国教である「キリスト教カソリック」の価値観に基づく関係で、「奴隷である黒人女性」と「主人である白人男性」の間に生まれた子供は「主人の側」と法的に看做されました。

白人主人と黒人奴隷女性との間に子供ができたのは、例外を除き「恋愛の末、結婚した」という事ではなく性的暴力の末といえましょうが、経緯はともかく、生まれた混血の子供は、法的に「主人の側=「白人」に分類されました。

ちなみに「白人」と書きましたが、「南北戦争」終結後の「奴隷解放令発令」までのニューオリンズの価値観でいえば、「白人」とか「黒人」という分類ではなく、「フランス人の血統」がどうかが重視されました。

要するに「白人」であってもカトリックでない北部の「英国系米国人」は「人種」として下。アフリカ系の血統であるにせよ、片親が「フランス人」ならば「英国系」よりはマシ、という感覚。

実は米国黒人のみならず、アフリカ人をどう扱うのか、については、カトリック教会の総本山であるローマ教会でも議論の的でしたが、アフリカについては「カソリックに入信したアフリカ人は人間扱い」し、そうでないアフリカ人について「人間」ではない。

従って駆り集めて奴隷にしても、牛を集めて牧場を作るのと同じだから構わない、という考え方。

米国ニューオリンズでのカトリック教会については、基本的には「奴隷黒人」には布教しなかったので、したがって「奴隷黒人」は「カトリック教徒」ではないから、どういう扱いがされようが教会は関知しない、という立場でした。

但し、どういう経緯で生まれたにせよ、フランス人やスペイン人等の「カソリック教徒」の血統が半分入った「混血黒人(混血白人というべきか)」に関しては、「人間=カソリック教徒」扱いされました。

この「混血黒人」を「クレオール」と呼びますが、実は映画等の話と異なり、「奴隷農園」は大勢の奴隷を抱えた邸宅に住む主人がいる、という事は例外的で、「貧しくて嫁の来てがない」貧乏白人が、頑張ってお金を貯めて労働力としての奴隷男性と共に、労働力兼オンナとして奴隷女性を購入する、というパターンが殆どでした。

その結果、奴隷女性が実質的「妻」になると共に、二人の間の子供が「跡継ぎ」になるケースは珍しくありませんでした。或いは白人の「本妻」がいるにせよ、奴隷女性との間の「混血児」も何らかの財産を相続する事になります。

その結果、「奴隷農園」の二代目主人は「クレオール(混血黒人)」である場合が少なくなく、また「フランス式の法律」の元では「クレオール」は完全に「白人」というか「人間=カソリック教徒」の扱いを受け、実際、南北戦争終結以前のニューオリンズの市会議員や銀行家の半数が「クレオール」だったと言われています。

南北戦争後の「奴隷解放令」で没落し、「黒人」になった「クレオール」

ところで16世紀以来の南部ニューオリンズの「奴隷農園」は、その半数が「クレオール(混血黒人)」だった主人の元、順調な発展を遂げ、19世紀頃には「クレオール」主人もニューオリンズの「中流」もしくは「上流」階級へと発展しました。

これも蛇足ながら、映画「風と共に去りぬ」はクラーク・ゲイブルとビビアン・リー主演、上流階級の美男美女のお話ですが、私はこれが実話に基づいており、且つ、それは「クレオール」家庭の話ではないか、と憶測してます。

実際、南北戦争の南軍の敗戦により、ニューオリンズにはリンカーンを長とする北軍が占領軍として入って来て、全てを変えてしまいます。

奴隷解放令の発令は、要するに「人件費の高騰」と共に、新しく導入された北部の価値観に基づく法律により「クレオール」は今迄の「フランス人=人間」という身分から、「黒人」という身分に落とされてしまいます。

今でこそ「白人」と「黒人」という「人種」分類で考えますが、南北戦争以前は「フランス人=カトリック教徒=人間」かそうでないか、という価値観で分類され、「クレオール」は「人間」つまり後の「白人」的な身分に分類されていました。

それを失った事で、色々な公職から追放されたり、農園の経営不振から、それまで中流~上流階級だった「クレオール」は没落してしまいます。

その結果、「解放」された元「奴隷黒人」と共に、北部から流入してきた資本による工場に働きに出たりしたようですが、そもそも「クレオール」と「奴隷黒人」は犬猿の仲なんですね。

元は半分「奴隷黒人」の血統だからと言って、「奴隷黒人」に優しくした、なんて事はなく、むしろ、なまじ「白人」の主人より、「クレオール」の主人の方が「奴隷黒人」に対し無慈悲だった、と言われています。

「奴隷農園」を描いて映画では、奴隷に残虐な仕打ちをするのは「白人」と決まっていますが、実際には「クレオール」つまり外見は「ほぼ黒人」か「どことなく黒人」の外見をした人こそ残虐だった訳です。

或いは「クレオール」の子供の結婚に際しては、悪くても「クレオール同士」で、できれば「白人」と結婚し、つまり子供は「ハーフ」だったが、孫は「クオーター」、その子供に至っては「白人」になる場合もあり、遺伝子の関係で、姉は「白人の風貌」だが、弟は「黒人の風貌」という事もままありました。

とは言え外見とは関係なく、或いは「ハーフ」だった代から、「奴隷黒人」とは異なる「人種」とし「クレオール」としての生きてきた訳で、今更「黒人」の中に入って行って生きる、というのは、難しい話でした。

その結果、没落した「クレオール」の女性は今でいう水商売や風俗業を始めました。

これは明治維新や第二次世界大戦後、それまでの大名や華族(元大名他)だった人達が没落し、普通のサラリーマンや公務員に転職した人が多かったが、キャバレーやバンドマンのような水商売に転職したケースが少なくなかったのと同様です。

悲惨な例として、「借金のかたに風俗業に売り飛ばされた」という事例は、明治維新や戦後の日本でもあったのと同様にニューオリンズの「クレオール」にももあった筈ですが、自邸を改装しての「高級売春宿」を開業する人も少なくなかったようです。

と街には北軍の給料をたっぷり貰った羽振りの良い兵隊が溢れており、彼らからすれば「クレオール」は「黒人」というよりは近くに寄れなかった「元上流階級の令室」という感じで、千載一遇のチャンスとばかりに飛びついた訳です。

没落した「クレオール」男性が始めた職が「売春宿のピアノ弾き」=ラグタイムの始まり

没落した「クレオール」女性が水商売や風俗業を始めた影響で、男性が始めた職業の一つが「売春宿」での「ピアノ弾き」。

元々は当時の流行歌やセレナーデやポルカ、マーチ等を弾いていましたが、その内、誰が造り出したのか、今でいう「ラグタイム」スタイルでピアノ演奏を始めた訳ですが、これが大流行。

敗戦前まで中上流階級に属していた「クレオール」は、教育があり、ピアノやバイオリン、フルートやクラリネット等を正式に学んだ人も少なくなく、敗戦までは優雅に当時の新進人気作曲家だったシューマンやブラームスのようなクラシックを楽しんでいた筈です。

ところが敗戦後は、大金をばらまく北軍の兵隊相手にサービスする訳ですから、軍楽隊が演奏する「マーチ」のように曲を随時用い、いわば「マーチ」のピアノ音楽版が「ラグタイム」になった、という所。

ちなみに「ラグタイムは楽譜に書かれた音楽で即興がない」と評する人もいますが、元々、即興的に編曲したり作曲したりしていた訳で、「楽譜」がなくても「ラグタイム」を演奏した筈です。

但し、クレオールの場合、音楽教育を受けていたので楽譜を読んだり、書いたりする技能があり、つまり「出版」して稼ぐという事もできたが故、現在にも「出版されたラグタイム」が遺っている訳です。

蛇足ながら、20世紀半ば以後のクラシック音楽の世界では「作曲家」と「演奏家」が分業しますが、それまではクラシック音楽においても「ピアノが弾ける」=「作曲や即興ができる」が普通でした。

むしろ現代の「楽譜通りには弾けるが作曲や即興はできない」というのは異常。

「文章は読めるが、文章を書けない」なんて人がいないのと同様に「楽譜が読める」=作曲や即興ができるのは普通の話でした。

そういえばショパンの「ワルツ」や「マズルカ」なぞは、やたらと同じメロディーの繰り返しが多いので弾いていた厭きてくる事もありますが、これらの曲は、元々「即興」する事が前提。

つまり同じメロディーを繰り返すのではなく「即興」を加えていた訳。
同じショパンの名曲でも難しい「即興曲」や「練習曲」「夜想曲」等の、音符で埋められている曲は、「ショパンならば、こういう具合に即興する」という見本が書かれている、と考えるべきでしょう。

そんな訳で「クラシック音楽の素養があったクレオール」達はクラシック名曲や流行等を編曲や即興しつつ、「売春宿のピアノ弾き」を稼業として続けた訳です。

そして「クレオール」が音楽教育の素養を活かして「ラグタイム」演奏で稼ぎ始めた頃に生まれたのが、元「奴隷黒人」だった人達によって作られた「ブルース」や「ゴスペル」です。

(ジャズの歴史3につづく)

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ジャズの歴史1/自由黒人と奴隷黒人の話 [独断による音楽史]

皆さん、こんにちわ。「リー・エバンス・メソッド」について書いている筈が、いつのまにか「ジャズ歴史」の話になり、かつ、暫く間があいた事で、前回、何の話をしていたのか忘れてしまいました。

という訳で前回と重複する部分もありますが、再び「ジャズの歴史」として、ジャズの始まりについてお話させて頂きます。

19世紀の米国「自由黒人」とは?

後世に「ジャズ」と呼ばれる音楽スタイルが創成されたのは1920年代当時、米国のジャズ的音楽には二系統あり、一つがニューヨークのような「米国北部スタイル」。

もう一つがニューオリンズのような「米国南部スタイル」でした。

尤も「北部ジャズ」は「南部ジャズ」の影響或いはコピーでできたようです。

というのは、南北戦争の北軍戦勝後に全米で発令された「奴隷解放令」以前から、北部に限らず南部にも「奴隷ではない自由黒人」が存在しました。

この「自由黒人」の末裔が「ジャズの父」と呼ばれたデューク・エリントンですが、エリントンに限らず、北部」の「自由黒人」や「解放奴隷」の末裔が「ジャズの発展」に大きな役割を果たした事は誰ども分かりますが、ジャズの創成期である1920年代頃の北部黒人は、「生まれながらにジャズができた」という訳でなかったようです。

「ジャズ」の源流は、南部で発祥した「ブルース」や「ラグタイム」「黒人のマーチバンド」等にあり、これらが北上する際、中部の都市であるシカゴで3つが融合して「ジャズ」ができた、というのが定説です。

19世紀半ばの「南北戦争」終結により、少なくても法的には「奴隷」はなくなり、全ての黒人が「自由黒人」となった訳ですが、その時代以前、日本の江戸幕末から明治にかけて米国では法律上も「奴隷」「解放奴隷」「自由黒人」等の同じ黒人でも「人権」の具合が全く違う立場が存在しました。

また白人と黒人の混血児に関しても、南部と北部とでは全く異なる「法的立場」になりました。

別に「人種問題」を語りたい訳ではありませんが、「ジャズの歴史」を語る上で「人種問題」は避けて通れないのと、よく本に書いてあるような「綿摘みの奴隷労働の苦しさがブルース」を生んだ、という「伝説」はウソだらけなので、人種問題とからめて、ジャズの源流を作った黒人について、今日はお話をします。

奴隷解放令発令前から存在した「自由黒人」という法的身分

南北戦争終結以前に関して、米国黒人の全てが「奴隷」だった、と思われがちですが、実は白人と同等の権利を有する「自由黒人」という法的身分が存在しました。

完全に「奴隷制度」が敷かれたニューオリンズを始め米国南部の場合、主人が没後に奴隷への感謝として遺言により「解放」した結果「自由黒人」になったり、奴隷自身が貯金して自分を主人から買い取って解放され「自由黒人」になる、という場合はありました。

北部の場合、州によりますが、「奴隷という身分の存在を認めない」為に、その州に奴隷が逃げ込んでしまうと自動的に「自由黒人」になったり、南部の「自由黒人」が移住してきたりで、多くの「自由黒人」が住んていました。

とはいう物の「奴隷解放」を大義名分としてリンカーン大統領率いる北軍、つまり北部にも奴隷は存在しましたし、北軍の将軍にも奴隷を所有し、最後まで解放しなかった人もいました。

どうやら「南北戦争」の際に北軍が掲げた「奴隷解放の為の戦争」は大義名分に過ぎず、リンカーン率いる北軍による南部侵略が「南北戦争」の実態でしょう。

とは言え、北部の「自由黒人」が南北戦争終結以前から、南部の「奴隷黒人」とは比較にならない程にマしな生活を営んでいた事と、教育を受け、音楽に関してはピアノやバイオリンを学んだ人も少なくありませんでした。

では北部の「自由黒人」がピアノやバイオリンで、ブルースやラグタイム等のジャズの源流を演奏できたのか、というえば、それは不可能で、殆どの人はクラシック音楽や当時の米国流行歌を演奏していたようです。

その後、南北戦争に戦勝し、改めて「アメリカ合衆国」として仕切り直した北部政府は、ネイティブアメリカン(インディアン)やハワイアン(ハワイの先住民)等の支配(虐殺によって)成功し、時代が過ぎて
1920年代頃になると第一次世界大戦の戦勝から、米国は世界一繁栄した国となりました。

尤も軍需産業でバブルを迎えた北部と異なり、南部は農業不況もあり経済崩壊、その結果、大量の「黒人」が南部を脱出し、「民族大移動」ともいえる北上を始めました。

前述のように北部に元々住んでいた「黒人」は、「黒人だから」という理由だけで自然にジャズの源流であるラグタイムやブルースが弾けた訳では全くありませんでしだか、南部から流入してきた黒人や黒人文化の影響によって、ラグタイムやブルース等を「知る」事ができます。

いわば中国から入ってきた「中華そば」が日本的洗練で「日本のラーメン」になった如く、「南部の黒人音楽=いわば中華そば」が「日本のラーメン」へと変化あるいは進化したように「北部ジャズ」が造られます。

また「北部ジャズ」を作ったのは黒人だけではなく、ガーシュインやコール・ポーター等の北部のユダヤ系白人が多く関わりりますが、1920年代の米国人の感覚ではユダヤ人というのは、厳密な意味では「白人」ではありませんが、少なくとも音楽のような芸能界においては「白人」として支配層に属しました。

それはともかく、元々はローカルな「黒人音楽」だったジャズやその源流のラグタイムやブルース等は、北部でよきも悪しきも発展し、商業音楽の中心となり、南部にも逆輸出されただけでなく、世界中で大流行します。
「ニューオリンズ・ジャズ」はニューオリンズではなくシカゴで生まれた

ところで「北部ジャズ」の元になった「南部のジャズ」ですが、シンプルにいえば「南部のジャズ」とは「ニューオリンズ・ジャズ」を意味します。

この「ニューオリンズ・ジャズ」ですが、名前から察して「ニューオリンズで生まれた」と勘違いしている人が多いのですが、実際には南部ニューオリンズではなく、中部の都市シカゴで生まれました。

前述の1920年代の南部大不況による南部黒人の北部への「民族大移動」に際しては、北部のニューヨークは遠すぎました。

そこで中部の大都市シカゴで一休みしたり定住する黒人が大勢いましたが、彼らによって作られたのが「ニューオリンズ・ジャズ」なのです。

「シカゴで生まれたのだからシカゴ・ジャズ」と呼ぶべきではないか、と思われるかも知れませんが、実は「シカゴ・ジャズ」というスタイルも存在します。

これは元からシカゴによって住んでいた主に「白人」によって生まれた、といいますか「ニューオリンズから来た黒人のジャズ」を真似した音楽を指します。別名「ディキーランド・ジャズ」とも呼びます。

同じくシカゴで生まれた音楽だが、「ニューオリンズから来た黒人」が演奏すれば「ニューオリンズ・ジャズ」で、シカゴで生まれた白人や黒人が演奏すれば「ディキシーランド・ジャズ」と呼ぶのは、今ならば「差別!」という事になりましょうが、当時は通った話、というか、そもそも「ニューオリンズ・ジャズ」とか「ディキシーランド・ジャズ」とか分けていたのかどうも定かではありません。

これは蛇足になりますが、日本人で「ニューオリンズ・ジャズ」を愛好し、自分でも「ニューオリンズ・ジャズ」のプロアマ・ミュージシャンを名乗る人は少なくありませんが、名前の本来の主旨からすれば、いくら「ニューオリンズ・ジャズ」が好きで、研究しようとも、それは「ニューオリンズ・ジャズ」とは呼べません。

あくまで「ディキシーランド・ジャズ」なのですが、「ディキシーランドジャズの真似」をした訳でなく、「ニューオリンズ・ジャズの真似」をしたから、自分がやっているのは「ニューオリンズ・ジャズ」だ、といいたい気持ちは解る…。

「ブルース」と「ラグタイム」とでは同じアフリカ系米国人ながら「人種」が違った

ところで「ニューオリンズ・ジャズ」を創生した「南部から来た黒人」達ですが、これは1種類でなく、大別した2種類の「黒人」つまり「元奴隷黒人」と「元は混血黒人(クレオール)と呼ばれた人」がありました。

この辺りの話は、「米国黒人歴史のタブー」として、白人黒人双方から「なかった事」にしたい史実ですが、南部ニューオリンズには、「綿花摘みの苦しさからブルースを作った」という「伝説」となる「奴隷黒人」と共に、北部の「自由黒人」とは異なる「クレオール」と呼ばれる混血の黒人或いは白人が存在しました。

(ジャズの歴史2に続く)
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