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僕がクビになった「リー・エバンス協会」に復帰した経緯 [Lee Evans Society]

2008年に僕は「リー・エバンス教材」国内上陸の「第二弾」に「監修者」として関わりますが、いざ国内版が出版された2009年に、国内代理店であるオクト出版社から、ファックスが届きました。

何かと思えば、一方的に「日本リー・エバンス協会」をクビに処す、という通知と共に、
「リー・エバンス教材に関わる事」もならぬ、との通知。

極めて理不尽ですが、内心、ホッとしたのも事実です。

実は内心ホッとした「リー・エバンス協会」クビ

当時の「日本リー・エバンス協会」自体、オクト出版社が創立した訳でなく、僕が結成した訳で、本来であればオクト出版社がどうこう言える立場ではありません。

勿論、気合を入れて関わってきた「リー・エバンス」と切り離されてしまう事は「精神的苦痛」ではありましたが、正直言って、「解放されて良かった」と感じました。

僕は、若いころに、確かに「リー・エバンス教材」第一弾で「練習」しましたが、実際に「ジャズ・ピアノの習得」は稲森康利先生や塩沢修三先生のメソッドで成したのと、或いはバリー・ハリス=三上クニ氏のメソッドや「オスカー・ピーターソンの練習曲」にもハマっていました。

要するに長年「リー・エバンス抜き」で「レッスン活動」や「自分の勉強=演奏の仕事」をやってきた訳で、「リー・エバンス教材」がないから、と言って自分の教室や演奏が崩壊する、という事はない、という事が一つ。

それと、なまじ「日本リー・エバンス協会」なぞと名乗り始め、また、当時は僕個人の教室まで「リー・エバンス教室」に改変しなければならない、という変なプレッシャーがあり、それ自体は良いが、好きだったオスカー・ピーターソンやバリー・ハリス等を捨てねばならない、と思い込んでいました。

確かに「リー・エバンス」は良いが、オスカー・ピーターソンやバリー・ハリスを捨てるのは苦痛だ、苦悩(笑)していた訳で、再び「リー・エバンス」抜きに戻っても、音楽活動の面では影響がなかったからです。

そに加えて、オクト出版社には悪いが、どうもオクト出版社が製作した「国内版」の出来について納得できない部分があり、これを掲げ、これに専念する、というのは苦戦を強いられる、と感じていました。

という訳で「これを機会にリー・エバンスなしの音楽生活に戻ろう!」と気分を切り替えた次第です。

クビになったお陰でラリー・ミンスキーの良さを知る

実は2008年にオクト出版社と「リー・エバンス」を一緒にやろう、と合意した時分は、相反するようですが、他のメソッドである「ラリー・ミンスキー」や「英国王立音楽院メソッド」その他のあるゆる「ジャズピアノ・メソッド」を僕は研究していました。

その全てが良いな、と思えましたが、「ビジネスとして具体化」できたのがオクト出版=「リー・エバンス」だった、というのが僕の側の真相でした。

ちなみに「オスカー・ピーターソン」等はピアノ自体のスキルが「中級」以上でないと弾けず、「ピアノ入門者や初心者でも弾けるジャズピアノ・メソッド」として浮上したのが、「リー・エバンス」「ラリー・ミンスキー」「「英国王立音楽院」でした。

当時の感覚では「どれも捨てがたい」といいますか、「告白」しますと、口でいう程に、僕自身が「リー・エバンスの良さ」を理解しておらず、むしろ「ラリー・ミンスキー」なんかの方が良いな、と想ったりもしました。

それで「リー・エバンス」関連からの出入り禁止を喰らったので、「ラリー・ミンスキー」に「乗り換え」、スタッフだったある女性ジャズピアニストと研究すると、これは、これで本当に良いんですねぇ。

リー・エバンス先生は、1960年代にジャズピアニストとしてデビューされ、実際にホレス・シルバーなんかとお付き合いがあったそうですけど、確かにホレスや当時のハービー・ハンコックなんかの影響がある、と僕は思います。

但し、前回書きましたように、「初級教材」としては「自分のスタイル」ではなく、「ジャズの基礎」である「1930年代のスウィングジャズ」スタイルで作曲されておられます。

対してラリー・ミンスキーさんは、もっと若い世代で、僕と同様に「後になって、1960年代のハービー・ハンコックやマッコイ・タイナーなんかの音楽を知った」世代なんです。

いわば僕が「大阪人」だから言って、毎日、たこ焼きを食べている訳でも、全ての会話が「大阪弁」である訳でもない、のと同様、リー・エバンス先生のような「本当に1960年代にデビューざれたジャズピアニスト」というのは、案外にもっと古いスタイルの影響が混ぜこぜて出てきます。

対してラリー・ミンスキーさんの場合、東京の役者が演じる「大阪人」みたいなもので、いわば「たこ焼きを食べながら、実際とはアクセントや用法が違う大阪弁を喋る」、つくられた「1960年代のハービー・ハンコッくのようなモード奏法」で作曲します。

だからお決まりの「クオーター・ハーモニー(四度で積み重ねた和音・例えはC F♯BE)」がバンバン出る訳ですが、そればかりでもなく、「本物のモード奏法」についての勉強もでき、「ラリー・ミンスキー」は相当良いぞ!と認識しました。

にも関わらず、「ラリー・ミンスキー」の方向に進まなかったのには、別な理由がありました。

エレガンス・スウィングやチャールストン・ラグというのスタイルを提唱したので、ギロックやマーサー・ミアーが良く思えてきた

「リー・エバンス」から離れた2010年頃になると、僕の音楽志向が変わってきました。

と言いますか、当時、集まり始めた若い生徒さん達の「希望」が、以前の僕の音楽スタイルと違うものだったのです。

本来、僕はオスカー・ピーターソンやバリー・ハリス等の「1950年代」のスゥイングジャズやモダンジャズが専門で、演奏の仕事としては「ラウンジジャズ」を自称し、一年360日位、毎晩、ホテルやなんかでピアノを弾いていました。

そんな事を二十歳の頃から二十数年も続ける事に疲れた、というか、どうにもこうにも厭きてしまったんですね。

要するに「夜の生活」から「昼の生活」つまりは「夜のピアノバー」ではなく、昼間の明るいカフェで、もう少し明るい音楽をやりたいな、と思うようになっていました。

加えて、当時の二十歳過ぎの若い生徒さんに言わせると、例えば「フュージョン」やら「モダンジャズ」は、なるほど「ジャズパーには合っている」が、そもそも、そんな所には興味がない、「では、どんなジャズが良いのか?」と色々とCDを聴かせました。

すると驚いた事にファッツ・ウォーラーとかルイ・アームストロングみたいな1920年代のニューオリンズ・ジャズや1930年代のスゥイング・ジャズが最もイイ、という訳です。

実は「聖者の行進」が有名なトランぺッターであるルイ・アームストロングなんて、勿論、聴いた事はあるし、名前も知っていましたが、全然興味がなく、真剣に聴いた事はありませんでした。

しかし、若い生徒さん達が、そういうのを聴いて盛り上がるし、かつ、「こういうジャズを教えて欲しい!」とか言い出す訳ですね。

と言われても、自分でも弾けないし、これという教材もない。

正確には、たまたま有していたファッツ・ウォーラーやテディ・ウィルソンやらの楽譜を持っていましたが、僕が長年勉強したきた「モダンジャズ」は全く勝手が違い、そもそも難しくて弾けないし、一体、どういう方法で編曲しているのかも見当が付かない。

それで毎日、生徒さん達と集まっては、ああでもない、こうでもない、と奏法の研究をしたり、手に入る教材を購入しましたが、たまたまAmazonで検索した際に「マーサ・ミアー」が初級向けの「ニューオリンズジャズ」スタイルのピアノメソッドを展開している事が判りました。

更に言えば、これは多分、現在の米国のトッププレーヤーらしいのですが、ジュディ・カーマイケルさんという金髪女性ピアニストが、1920年代の「ストライドピアノ」のメソッドを作っていると判りました。

それでジュディさんにコンタクトし、教材を回して貰ったり、またジュディさんの演奏楽譜を解析したりで、少しづつですが1920~30年代スタイルのジャズピアノが自分でもできるようになったし、(結局、未だに、できる、と言える程にはできませんけどね)、何はともあれ「レッスン」できるようになりました。

また、どういう訳か「ジャズボーカル科」の生徒さんも増え、これも忙しくなったし、そういう人達を集めての「チャールストン俱楽部」というプロジェクトの音楽活動も忙しくなった。

そもそもスタジオ(教室)の備品であるグランドピアノが、偶偶ですが、米国のキンボールというブランドの、よきも悪しきも「音は暖かい」がどうも「ホンキートンク」なものに換わり、都会的な「リー・エバンス」ではない、シカゴやパリ風のスウィング・ジャズへと転身し、完全ではないが「夜バー」から「昼のカフェ」に転職(?)したりしました。

要するに「リー・エバンス」の事は完全に頭のなかから消え去り、それなりに充実した音楽ライフを歩み始めた頃に。突然、現れたんですよ。

四年ぶりに再会した「リー・エバンスの世界」だが

新しい音楽プロジェクトである「チャールストン俱楽部」を掲げ、ニューオリンズジャズやら「パリ風スゥイングジャズ」なぞを自称し(笑)、ビストロでワインを飲みつつチーズを齧っているようなある日、四年ぶりにオクト出版社長から電話が入りました。

オクト出版は東京の会社ですが、社長が僕の事務所がある大阪まで来られる、との事。

それでお会いすると、「四年前の無礼の数々」を謝罪されると共に、「再び、リー・エバンス普及をやって欲しい」との事。

四年前に、僕はを一方的にクビにしたのは、オクト出版の「ビジネス的な理由」といいますか、詳しく聴きますと、オクト出版自体が騙された、といいますか「勘違い」していた事が発端だったようです。

いずれにせよ、過去の事は水で流しましょう、とわだかまりなく言えたのは、別に僕が人格者だったからでは全くなく、「リー・エバンス」と離れたからこそ、新しい「充実した音楽生活」ができたから、という「余裕」からでしょう。

もう一点は、オクト出版社長の木村氏と同様に、僕もまた「リー・エバンスの価値」を人一倍認識しており、これを日本で普及させないのは、「音楽の神様」に申し訳ない、と思えた事。

要するに、四年間、僕抜き、違う人にシフトして、「リー・エバンス普及」をやってみたが、結果は良くなかった、との事。その人が悪い訳ではありませんが、「リー・エバンス」を普及するには「ジャズピアノが弾ける事」「様々なジャズメソッドに詳しい事」「ジャズ教育の経験がある事」が必要。かつ「クラシック経験もある事」が条件。

なかなか、そういう都合の良い人がいる訳ではなく、結局、バスティンやギロックが変形したもの位にしか「リー・エバンス」を理解できず、ならはせバスティンやギロックの方がいいでしょう、と多くの人に感じされてしまった次第。

加えて、本の作りの問題や、プロモーションの不味さもあり、オクト出版としては「社運を賭けてリー・エバンスを始めた」訳ですが、見事にコケてしまった、という所でした。

なんにせよ、「リー・エバンスの普及」は僕の方が適任だろうな、とは思いましたが、過去の経緯は水に流すとして、再びやるとなると大問題がありました。

まず何よりも、四年間の間に僕自身も僕の音楽プロジェクトも「リー・エバンス抜きの体制」で固められていた事。

また、気に入った「ラリー・ミンスキー」も含めてリー・エバンスのスタイルである「1960年代のモードジャズ」ではなく、その真反対とも言える「1920~40年代の古いジャズ」に当時の僕が専心していた事。

おまけに、本来は「ピアノ教室」だった筈が、なぜか「ジャズボーカル」の生徒さんが増加してしまい、しかも、単なる生徒さんではなく、一緒にライブ等をやりましょう、とかになっていて、下手すると「ジャズピアノ教育」自体に充てれる時間があまりなかった事。

そんな事で「リー・エバンス普及」を再開したとして、どこまでできるのか不明。

かと言って、「リー・エバンスの国内普及」は僕がやるしかないぞ、とも思いました。


改めて認識した「リー・エバンスの凄さ」

結局、僕の教室の「ジャズピアノ科」については、初級は四年間かけて安定させた「マーサ・ミアー」が多数をしめつつも、変なもので、僕が「リー・エバンスを再びやろう」と思うと「リー・エバンスで学びたい生徒さん」が集まり始めました。

尤も「初級用」教材でピアノを弾く生徒さんではなく、上級用の「ラウンジジャズ・コレクション」楽譜を楽曲分析し、「高度なジャズ理論」を学びたい、という人達でしたが。

それで判った事は、実は「ラリー・ミンスキー」よりも「リー・エバンス」の方が難解だ、という事と、僕が以前、どこかで習った「モード奏法」の知識はまるで役に立たない、という事。

正直言って、リー・エバンス編曲の「ラウンジジャズ・コレクション」は「弾くだけ」ならば直ぐ弾けましたが、コード進行の分析となると、僕も「歯が立たない」というか、確証が持てない部分だらけ、というか、無理矢理理屈をつけただけだ、としか言いようがない程度にしかできなかったんだすよ。

それでも一曲づつ分析し、段々とリー・エバンス先生の「編曲技法」というものが解析できるようになると、もう、想像したのと全然違うな、と嬉しい悲鳴が上がりました。

要するに一言でいえば「リー・エバンスの音楽は凄く良い!」という事なんですが、
それは勿論、結構なのですが、具体的な「リー・エバンス普及」については、
新たな大問題が浮上してきたのです。

つづく
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