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クラシックピアノしか習った事がない人が安心して学べるジャズ・メソッド [Lee Evans Society]

「日本リー・エバンス協会」とは米国の著名なジャズ教育家であるリー・エバンス教授のジャズやヒーリング音楽等のメソッドと作編曲作品の普及活動を行うグループで、僕が代表となります。

リー・エバンスの教材の「日本上陸」は、1980年代初頭の「第一弾」と、2008年の「第二弾」とがあり、後者については僕も監修者の「名目」で関わりますが、本当の意味で僕が関わり始めたのは、ごく最近、2020年頃からです。

リー・エバンス教材国内上陸第二弾に僕が加わった理由

2008年頃に僕が「リー・エバンス・メソッド国内上陸第二弾」に参加したのは、僕が「リー・エバンス・メソッド」を必要としたからですが、これは僕自身の「ジャズ技能の向上」ではなく、僕が関わる「ジャズ教室」の「レッスン・プログラム」として必要だったからです。

「ジャズ教室」は趣旨によって色々な「レッスンプログラム」がありますが、僕が目指したのは「クラシックピアノしか習った事がない人」が「安心して学べるジャズ・レッスン」体制を作り上げる事でした。

僕が「クラシック出身」なのか?と言えば、学歴こそ「クラシック系音大作曲科」卒ですが、入学する以前から、実際はさて置き、メンタリティの上では僕は「ジャズ・ミュージシャン」であり、「ジャズの基礎がクラシック」だから音大に進学した訳です。

とは言え、一応は「クラシック」に関しては和声学や対位法等の「クラシック作曲に必要な技能」や「クラシックピアノ」は学んでおり、「ド素人ではない」事も事実でした。

大して「ジャズ」については学ぶ機会がなく、「我流」で「即興演奏」活動を始め、「聴く方も訳が解ってない場合」に限りオーディションに合格し、ライブハウス等に出演させて貰い、自分では「一人前」のつもりでした。

尤も成人式を過ぎる頃から、自分の「インチキ」ぶりに嫌気が差し、卒業して社会人(?)になったのを機に「ライブ活動(笑)」を停止すると共に「ジャズ教室プロ養成科」なるものに入会し、「オーソドックスなモダンジャズ」の勉強を始めました。

しかし「ジャズ教室」の選択を誤ったらしく、何も教えて貰えないまま、反面「ジャズは学ぶものではない、慣れるもの、盗むものだー!」という一見正しいが間違っている標語のまま、レストランやバーのBGM演奏の現場に放り出されてしまいました。

ジャズではなくてポピュラーピアノです、という欺瞞

勿論「ジャズピアノ」なんて弾けないのですが、当時もは(今もかな?)「ポピュラー・ピアノ」という名称の「実際はインチキなだけ」の演奏で出演料を貰うようになりました。

今から思えば、僕が入会した「ジャズ教室」に見切りを付け、京都にあった藤井貞泰先生や坂本輝先生による「本物のジャズピアノ」の「教育」を行う場に転出すべきでしたが、今と違ってネット情報もなく、レッスン会場がどこなのか判らず、ご縁がないままでした。

否、正確に言えば藤井貞泰先生から学んでいる知人もいたから、その気になれば、貞泰先生から学ぶことができた筈ですが、実は「ビビっていた」んですよね。

「本物」が来ると逃げてしまった惨めな年月

藤井貞泰先生の元では「レベルが高い講座」が行われている、と聞き、そんな場に放り込まれても手も足も出ない自分だとすれば、惨めなだけだろうし、実際、当時の僕の技能や知識のレベルでは、レッスン会場で「塩をかけられたナメクジ」のようにイジケタ筈です。

要するに「藤井貞泰先生のレッスンに堂々と乗り込める」レベルまで「ジャズピアノの基礎」を習得しなければせならない、という事位は判ったものの、具体的な方法として試行錯誤の末、坂本輝先生著「レッツ・プレイ・ジャズピアノ」シリーズの全ての教材を完全習得する事にしました。

結局、全ての「ワークブック」に鉛筆で書き込み、それを練習するを続けた結果、二年位後には「ジャズアドリブ・バターン」や「ジャズコード・パターン」を覚え、それをコピペした「ジャズピアノ(に似たもの)」が弾けるようになりました。

その頃には某楽器メーカーの勤め人を辞め、フリーランスといえば体が宜しいが、今でいうフリーターとして音楽事務所が回してくれるままレストランやバー等の「ジャズピアノ(に似た演奏)」の仕事をこなしていった次第でありました。

とはいえ、大阪にも「本物のジャズピアニスト」は幾らでも存在した訳で、大塚善正先生や寺井尚之先生の演奏を間近に聴くについて、「レベル」ならば宜しいが、「種類」が自分とは違うぞ、という事にも気付きました。

「なんちゃってジャズ」は何年たっても「なんちゃってジャズ」

先生方が「本物のジャズピアニスト」であるならば、僕は今でいう「なんちゃってジャズ」に過ぎず、「なんちゃってジャズ」を何年、何十年経験しようが、永遠に「なんちゃってジャズ」からは脱却できない、とも気付きました。

「本物」と「なんちゃって」の違いは、例えば「カレー・ライス」を作るとして、市販の「ハウス・バーモントカレー」を使い、幾ら具に工夫を凝らした所で、それなりに美味しい事は確かですが、本来の意味での「料理」ではない、もしくは「料理性が低い」ものとなります。

対して、結果的にはイマイチでも、自分でスパイスを調合して作るのが「本物のカレー」。

確かに低い段階では「自分でスパイスを調合したカレー」よりも「バーモントカレー」の方が美味しいかも知れませんが、十年作り続けても「バーモントカレー=なんちゃってジャズ」である事は変わりません。

逆に当初は未熟でも「スパイスを調合してのカレー作り」を続ければ、やがて、美味しい「本物のカレー」が作れます。

藤井貞泰先生のレッスンは、いわば「スパイスを調合してのカレー」に対しての批評から始まる訳で、「バーモントカレー」しか作った事のない僕はビビッて参加できなかった訳です。

尚、前回も書きましたが、坂本輝先生の「リアルのジャズレッスン」は「バーモントカレー」ではなく、いわば「スパイス」の一つ一つの理解から始まるような、「本物のジャズピアノ」に連なるものであった筈です。

但し、坂本輝先生の教材を出版していた音楽之友社が「ジャズ教材」から撤退してしまい、本来は出版されたであろう、いわば「スパイスを作ったカレーの作り方」に相当する「ジャズピアノのメソッド」が僕には手に入らず、僕は行き詰まってしまいます。

クラシックピアノの「練習曲」に相当したリー・エバンスに驚喜する

当時というか、多分、現在もあまり変わっていないと思いますが、一般的な「ジャズピアノの勉強方法」としては、次の事をやりました。

ピアノ演奏技術の向上として ・クラシックピアノの練習 音楽理論の習得として ・クラシックの和声学等の勉強 ・ジャズの楽典の勉強 ジャズアドリブやジャズコードの習得として ・レコードからジャズピアノ演奏を採譜し、練習してコピペする

前回も書きましたが、坂本輝先生の「レッツ・プレイ・ジャズピアノ」は良い教材だとは思いますが、いわゆる「指使い」が書いておらず、練習を続けると「間違った指使い=間違ったピアノの弾きかた」の癖が付きかねませんでした。

それを回避する為に「クラシックピアノの練習曲」等を熱心に練習する訳でずか、
それでも、どうも「ジャズピアノを弾くとクラシックピアノが下手になり、クラシックピアノの練習に励むとジャズが弾けなくなる」という現象は相変わらずでした。

これは今にして思えば、僕の「ジャズ」が「なんちゃってジャズ」であった事は確かですが、同様に「クラシックの弾きかた」と思っていたものが、実は「なんちゃってクラシック」に過ぎなかったからの現象です。

「本物のクラシックピアノの弾きかた」と言いますか「演奏原理」を習得できていれば、バッハを弾いたからと言ってショパンが弾けなくなる筈がない、のと同様、ジャズを弾いたから、と言ってクラシックが「くずれる」事もありません。

また「本物のクラシック」を理解していれば、つまり「なんちゃってクラシック(和製クラシック)のリズム感」ではない「ドイツやフランスの正統的クラシックのリズム感」を理解していれば、例えば「バッハやベートーヴェンを熱心に練習する程に、ジャズでのリズム感も向上する」という事になります。

「なんちゃってクラシック」同様に「なんちゃってジャズ」のリズム感も「間違っている」が故に、両立ができない、という訳です。

それはさて置き、僕が、そういう事が理解できるようになるのは、十年以上後の話であり、僕としては「モシュコフスキーのようなクラシック練習曲」と「レッツ・プレイ・ジャズピアノのジャズパターン」を毎日練習し、両者を「なんとなく融合させる」事を続けました。

或いは、当時の僕は「ジャズ和声」の方法を知りませんでしたから、「クラシック和声」の方法と「ジャズ楽典」を「なんとなく融合」させる研究をしていました。

そういえば、当時「ニューエイジ・ミュージック(後の「ヒーリング・ミュージック」)で売り出していた「中村由利子」さんが、まだ売り出さて有名になる前に、ジャズ雑誌のピアノ講座様に編曲された「スターダスト」だったか何だったかの楽譜がありました。

これが、バランスよく、綺麗にハーモニーが付けられており、「なんちゃってジャズ」式に「コードパターン」をはめ込んだものとは全く違うので、羨ましく感じました。

まぁ、今、観れば格別驚くような編曲ではなく「普通にJazz-Voicing(ジャズ和声付け)」しただけと思いますが、当時の僕には「どうやれば、こういう具合にできるのか?」と羨んだものです。

要するに「なんちゃってジャズ」からの脱却が「今後の人生の為の絶対条件」だった訳ですが、今迄の勉強方法では「何十年経ってもバーモントカレー=なんちゃってジャズ」である事も解っていました。

そんな時に音楽之友社から「リー・エバンス教材」が発売され、つまり「リー・エバンスの国内上陸」の「第一弾」が行われ、「黒船来航」のように衝撃を受けた僕は市販されたリー・エバンス教材の全てを買い込みました。

それで練習すべきものは練習し、理論や和音付けの課題は全て書き込んで、リー・エバンスに専念します。

とにかくありがたかったのは、リー・エバンスには「ハノン」あるいは「レッツ・プレイ・ジャズピアノ/マスターシリーズ」のような「パターン練習」はありませんでしたが、どこかで聴いたような「ジャズフレーズ」が「正確な記譜」で用いられ、しかも全曲「正しい指使い」がふられていた事です。

リー・エバンスで練習しても「なんちゃってジャズ」から脱却できなかった訳

それで二年くらい練習した訳ですが、なるほど「綺麗にジャズフレーズを弾けるようになった」事は確かですが、相変わらず「ジャズピアノのハーモニーやアドリブの方法」は判らず、結局「コードパターン」や「アドリブパターン」が増えただけ。

「なんちゃってジャズ」が「洗練された」だけ。以前よりはマシだが、いわば「ハウス/バーモントカレー」が「ハウス/クロスブレンドカレー」にグレードアップしただけ。

これではダメだなぁ、という事は自分でも判りました。

2008年の第二弾監修の際に判った「第一弾の欠陥」

時は過ぎ、2008年にご縁があり、僕はリー・エバンス教材「国内上陸第二弾」に「監修者」として関わる事になりました。

出版元であるオクト出版社から頼まれた訳ではなく、僕が自分が監修する「ジャズ教室」用の教材として必要だったから、「第一弾」の教材を引き続き販売していたオクト出版にコンタクトしたのが話の始まりです。

1980年代初頭に国内上陸した「第一弾」は、出版元が音楽之友社から、東芝EMI、ソニーミュージックと変わりつつ、出版自体はオクト出版が行っていましたが、僕が心配したのは、今後の安定供給でした。

結局、「第二弾」の国内上陸に僕も関わる事になりましたが、その時、初めてリー・エバンス教材や編曲作品の全貌を知りました。

何のことはない、「第一弾」が国内上陸した際に、国内出版した教材の取捨選択が全く間違っている事、つまり「基礎」部分が欠落しており、且「中級以後」も欠落しており、これでも僕が経験したように「ピアノ練習」ができるだけ。

つまり「第一弾」の国内版だけでは、どうやっても「ジャズピアノが弾けるようになる」事は不可能だったのです。

結局「第二弾」は「基礎=ピアノ入門〜初級」に相当する部分の「国内出版」が行われましたが、ここにも大きな問題がありました。

つまり「リー・エバンス教材の使い方」が、本だけでは絶対に理解できない、という点です。

「使い方」が分からなくて当然なんだから

1980年代半ば頃から、僕はリー・エバンス「国内上陸した第一弾」で数年練習を続けましたが、それから20年の間に、稲森康利先生のメソッドや塩沢修三先生のメソッド、オスカー・ピーターソンの教材、バリー・ハリス/三上クニ氏の教材等により、まがりなりにも「ジャズピアノ」が弾けるようになっていました。

また「ジャズ理論」にも強くなると共に、自分で「ジャズ和声学」のメソッドを執筆できるようになりました。

そういう「一応は習得した者」から見れば、リー・エバンス教材はとても優れています。

且、その素晴らしさは、かっては良いと思えた「芸大和声」や「レッツ・プレイ・ジャズピアノ」のような「トレーニングペーパー」的な、「グレード制度的なもの」ではなく、正にバッハの「アンナ・マクダレーナの為の練習帳(小品集)」や「長谷川良男先生の大和声学教程や対位法他」や「ヘンリー・シャロンの和声」のように「深み」があるものです。

つまり「初級向けの課題」は、なるほど初級者でも一応は解答できますが、上級者が別の視点で全く違った解答ができます。

困るのは、そういう「説明」が全くなされていないのが、リー・エバンスに限らず、オスカー・ピーターソンにせよ、バッハにせよ、「芸術性の高いメソッド」の在り方なのです。

要するに、リー・エバンス教材で「指導する者」の音楽スキルが問われますが、それでも最低限度の「説明」は必要な事は明白です。

困る事のもう一点として、同じ「クラシックピアノの先生や生徒」であっても、米国人ならば「前提」としてできる事が、日本人だと「全く知らない」という事が多々あります。

例えば、京都に行きますと、「レンタル着物屋さん」が沢山あり、外国人観光客が、着物を着付けて貰って京都観光を楽しまれておられますが、日本人と同じような顔つきや体形である中国や韓国の方は当然として、欧米の白人女性も綺麗に着物を着こなされておられます。
勿論、「レンタル着物屋さん」が「正しい着付け」をされたからで、僕達日本人が観ても違和感のない仕上がりになっていますが、ハリウッド映画で出て来る「着物を着た日本人やアメリカ人」は大抵、変な着付けや、着物の選択になっています。

ハリウッドともなれば、本当は「正しい着付け」ができる人なぞ幾らでもいる筈ですが、「アメリカ人がイメージする着物の着方」になるから、なんとも奇抜な装いになる訳です。

同じ事が「リー・エバンス教材」にも当てはまり、米国のピアノの先生や生徒ならば、ジャズ経験がなくとも普通にできる事が、日本人だと、クラシックピアノの先生や生徒に限らず、ライブハウスで演奏しているジャズミュージシャンだろうとも、いわば「ハリウッド映画の着物の着こなし」的に本来とは違ったものになります。

つまり「振袖は未婚女性の晴れ着で、浴衣は本来カジュアルで、紋付は礼服、振袖は必ず下着である襦袢を着て、帯をしめる事云々」を説明するように、「楽譜のここは、こう弾いて、この記号は、こう解釈して云々」と説明しなければなりません。

その全ての説明は無理として、僕が「リー・エバンス教材国内版第二弾」の出版に「監修者」として参加した際には、実は「条件」として、いわば「リー・エバンス教材の使い方」と共に「日米の音楽感覚の違い」についても若干の説明を加える筈でした。

その為の原稿も提出しましたが、出版された教材のどこにもそれはなく、やたらと冊数こそ出版されたものの、果てして「リー・エバンス教材の使い方」がどれだけの人に理解できたのか不明のまま、市場からフェイドアウトしてしまった所存です。

という訳で、次回は「リー・エバンス教材」とは何なのか?についてお話しますね。













「日本リー・エバンス協会」とは米国の著名なジャズ教育家であるリー・エバンス教授のジャズやヒーリング音楽等のメソッドと作編曲作品の普及活動を行うグループで、僕が代表となります。

リー・エバンスの教材の「日本上陸」は、1980年代初頭の「第一弾」と、2008年の「第二弾」とがあり、後者については僕も監修者の「名目」で関わりますが、本当の意味で僕が関わり始めたのは、ごく最近、2020年頃からです。

2008年頃に僕が「リー・エバンス・メソッド国内上陸第二弾」に参加したのは、僕が「リー・エバンス・メソッド」を必要としたからですが、これは僕自身の「ジャズ技能の向上」ではなく、僕が関わる「ジャズ教室」の「レッスン・プログラム」として必要だったからです。

「ジャズ教室」は趣旨によって色々な「レッスンプログラム」がありますが、僕が目指したのは「クラシックピアノしか習った事がない人」が「安心して学べるジャズ・レッスン」体制を作り上げる事でした。

僕が「クラシック出身」なのか?と言えば、学歴こそ「クラシック系音大作曲科」卒ですが、入学する以前から、実際はさて置き、メンタリティの上では僕は「ジャズ・ミュージシャン」であり、「ジャズの基礎がクラシック」だから音大に進学した訳です。

とは言え、一応は「クラシック」に関しては和声学や対位法等の「クラシック作曲に必要な技能」や「クラシックピアノ」は学んでおり、「ド素人ではない」事も事実でした。

大して「ジャズ」については学ぶ機会がなく、「我流」で「即興演奏」活動を始め、「聴く方も訳が解ってない場合」に限りオーディションに合格し、ライブハウス等に出演させて貰い、自分では「一人前」のつもりでした。

尤も成人式を過ぎる頃から、自分の「インチキ」ぶりに嫌気が差し、卒業して社会人(?)になったのを機に「ライブ活動(笑)」を停止すると共に「ジャズ教室プロ養成科」なるものに入会し、「オーソドックスなモダンジャズ」の勉強を始めました。

しかし「ジャズ教室」の選択を誤ったらしく、何も教えて貰えないまま、反面「ジャズは学ぶものではない、慣れるもの、盗むものだー!」という一見正しいが間違っている標語のまま、レストランやバーのBGM演奏の現場に放り出されてしまいました。

勿論「ジャズピアノ」なんて弾けないのですが、当時もは(今もかな?)「ポピュラー・ピアノ」という名称の「実際はインチキなだけ」の演奏で出演料を貰うようになりました。

今から思えば、僕が入会した「ジャズ教室」に見切りを付け、京都にあった藤井貞泰先生や坂本輝先生による「本物のジャズピアノ」の「教育」を行う場に転出すべきでしたが、今と違ってネット情報もなく、レッスン会場がどこなのか判らず、ご縁がないままでした。

否、正確に言えば藤井貞泰先生から学んでいる知人もいたから、その気になれば、貞泰先生から学ぶことができた筈ですが、実は「ビビっていた」んですよね。

藤井貞泰先生の元では「レベルが高い講座」が行われている、と聞き、そんな場に放り込まれても手も足も出ない自分だとすれば、惨めなだけだろうし、実際、当時の僕の技能や知識のレベルでは、レッスン会場で「塩をかけられたナメクジ」のようにイジケタ筈です。

要するに「藤井貞泰先生のレッスンに堂々と乗り込める」レベルまで「ジャズピアノの基礎」を習得しなければせならない、という事位は判ったものの、具体的な方法として試行錯誤の末、坂本輝先生著「レッツ・プレイ・ジャズピアノ」シリーズの全ての教材を完全習得する事にしました。

結局、全ての「ワークブック」に鉛筆で書き込み、それを練習するを続けた結果、二年位後には「ジャズアドリブ・バターン」や「ジャズコード・パターン」を覚え、それをコピペした「ジャズピアノ(に似たもの)」が弾けるようになりました。

その頃には某楽器メーカーの勤め人を辞め、フリーランスといえば体が宜しいが、今でいうフリーターとして音楽事務所が回してくれるままレストランやバー等の「ジャズピアノ(に似た演奏)」の仕事をこなしていった次第でありました。

とはいえ、大阪にも「本物のジャズピアニスト」は幾らでも存在した訳で、大塚善正先生や寺井尚之先生の演奏を間近に聴くについて、「レベル」ならば宜しいが、「種類」が自分とは違うぞ、という事にも気付きました。

先生方が「本物のジャズピアニスト」であるならば、僕は今でいう「なんちゃってジャズ」に過ぎず、「なんちゃってジャズ」を何年、何十年経験しようが、永遠に「なんちゃってジャズ」からは脱却できない、とも気付きました。

「本物」と「なんちゃって」の違いは、例えば「カレー・ライス」を作るとして、市販の「ハウス・バーモントカレー」を使い、幾ら具に工夫を凝らした所で、それなりに美味しい事は確かですが、本来の意味での「料理」ではない、もしくは「料理性が低い」ものとなります。

対して、結果的にはイマイチでも、自分でスパイスを調合して作るのが「本物のカレー」。

確かに低い段階では「自分でスパイスを調合したカレー」よりも「バーモントカレー」の方が美味しいかも知れませんが、十年作り続けても「バーモントカレー=なんちゃってジャズ」である事は変わりません。

逆に当初は未熟でも「スパイスを調合してのカレー作り」を続ければ、やがて、美味しい「本物のカレー」が作れます。

藤井貞泰先生のレッスンは、いわば「スパイスを調合してのカレー」に対しての批評から始まる訳で、「バーモントカレー」しか作った事のない僕はビビッて参加できなかった訳です。

尚、前回も書きましたが、坂本輝先生の「リアルのジャズレッスン」は「バーモントカレー」ではなく、いわば「スパイス」の一つ一つの理解から始まるような、「本物のジャズピアノ」に連なるものであった筈です。

但し、坂本輝先生の教材を出版していた音楽之友社が「ジャズ教材」から撤退してしまい、本来は出版されたであろう、いわば「スパイスを作ったカレーの作り方」に相当する「ジャズピアノのメソッド」が僕には手に入らず、僕は行き詰まってしまいます。

クラシックピアノの「練習曲」に相当したリー・エバンスに驚喜する

当時というか、多分、現在もあまり変わっていないと思いますが、一般的な「ジャズピアノの勉強方法」としては、次の事をやりました。

ピアノ演奏技術の向上として
・クラシックピアノの練習

音楽理論の習得として
・クラシックの和声学等の勉強
・ジャズの楽典の勉強

ジャズアドリブやジャズコードの習得として
・レコードからジャズピアノ演奏を採譜し、練習してコピペする

前回も書きましたが、坂本輝先生の「レッツ・プレイ・ジャズピアノ」は良い教材だとは思いますが、いわゆる「指使い」が書いておらず、練習を続けると「間違った指使い=間違ったピアノの弾きかた」の癖が付きかねませんでした。

それを回避する為に「クラシックピアノの練習曲」等を熱心に練習する訳でずか、
それでも、どうも「ジャズピアノを弾くとクラシックピアノが下手になり、クラシックピアノの練習に励むとジャズが弾けなくなる」という現象は相変わらずでした。

これは今にして思えば、僕の「ジャズ」が「なんちゃってジャズ」であった事は確かですが、同様に「クラシックの弾きかた」と思っていたものが、実は「なんちゃってクラシック」に過ぎなかったからの現象です。

「本物のクラシックピアノの弾きかた」と言いますか「演奏原理」を習得できていれば、バッハを弾いたからと言ってショパンが弾けなくなる筈がない、のと同様、ジャズを弾いたから、と言ってクラシックが「くずれる」事もありません。

また「本物のクラシック」を理解していれば、つまり「なんちゃってクラシック(和製クラシック)のリズム感」ではない「ドイツやフランスの正統的クラシックのリズム感」を理解していれば、例えば「バッハやベートーヴェンを熱心に練習する程に、ジャズでのリズム感も向上する」という事になります。

「なんちゃってクラシック」同様に「なんちゃってジャズ」のリズム感も「間違っている」が故に、両立ができない、という訳です。

それはさて置き、僕が、そういう事が理解できるようになるのは、十年以上後の話であり、僕としては「モシュコフスキーのようなクラシック練習曲」と「レッツ・プレイ・ジャズピアノのジャズパターン」を毎日練習し、両者を「なんとなく融合させる」事を続けました。

或いは、当時の僕は「ジャズ和声」の方法を知りませんでしたから、「クラシック和声」の方法と「ジャズ楽典」を「なんとなく融合」させる研究をしていました。

そういえば、当時「ニューエイジ・ミュージック(後の「ヒーリング・ミュージック」)で売り出していた「中村由利子」さんが、まだ売り出さて有名になる前に、ジャズ雑誌のピアノ講座様に編曲された「スターダスト」だったか何だったかの楽譜がありました。

これが、バランスよく、綺麗にハーモニーが付けられており、「なんちゃってジャズ」式に「コードパターン」をはめ込んだものとは全く違うので、羨ましく感じました。

まぁ、今、観れば格別驚くような編曲ではなく「普通にJazz-Voicing(ジャズ和声付け)」しただけと思いますが、当時の僕には「どうやれば、こういう具合にできるのか?」と羨んだものです。

要するに「なんちゃってジャズ」からの脱却が「今後の人生の為の絶対条件」だった訳ですが、今迄の勉強方法では「何十年経ってもバーモントカレー=なんちゃってジャズ」である事も解っていました。

そんな時に音楽之友社から「リー・エバンス教材」が発売され、つまり「リー・エバンスの国内上陸」の「第一弾」が行われ、「黒船来航」のように衝撃を受けた僕は市販されたリー・エバンス教材の全てを買い込みました。

それで練習すべきものは練習し、理論や和音付けの課題は全て書き込んで、リー・エバンスに専念します。

とにかくありがたかったのは、リー・エバンスには「ハノン」あるいは「レッツ・プレイ・ジャズピアノ/マスターシリーズ」のような「パターン練習」はありませんでしたが、どこかで聴いたような「ジャズフレーズ」が「正確な記譜」で用いられ、しかも全曲「正しい指使い」がふられていた事です。

それで二年くらい練習した訳ですが、なるほど「綺麗にジャズフレーズを弾けるようになった」事は確かですが、相変わらず「ジャズピアノのハーモニーやアドリブの方法」は判らず、結局「コードパターン」や「アドリブパターン」が増えただけ。

「なんちゃってジャズ」が「洗練された」だけ。以前よりはマシだが、いわば「ハウス/バーモントカレー」が「ハウス/クロスブレンドカレー」にグレードアップしただけ。

これではダメだなぁ、という事は自分でも判りました。


2008年の第二弾監修の際に判った「第一弾の欠陥」



時は過ぎ、2008年にご縁があり、僕はリー・エバンス教材「国内上陸第二弾」に「監修者」として関わる事になりました。

出版元であるオクト出版社から頼まれた訳ではなく、僕が自分が監修する「ジャズ教室」用の教材として必要だったから、「第一弾」の教材を引き続き販売していたオクト出版にコンタクトしたのが話の始まりです。

1980年代初頭に国内上陸した「第一弾」は、出版元が音楽之友社から、東芝EMI、ソニーミュージックと変わりつつ、出版自体はオクト出版が行っていましたが、僕が心配したのは、今後の安定供給でした。

結局、「第二弾」の国内上陸に僕も関わる事になりましたが、その時、初めてリー・エバンス教材や編曲作品の全貌を知りました。

何のことはない、「第一弾」が国内上陸した際に、国内出版した教材の取捨選択が全く間違っている事、つまり「基礎」部分が欠落しており、且「中級以後」も欠落しており、これでも僕が経験したように「ピアノ練習」ができるだけ。

つまり「第一弾」の国内版だけでは、どうやっても「ジャズピアノが弾けるようになる」事は不可能だったのです。

結局「第二弾」は「基礎=ピアノ入門〜初級」に相当する部分の「国内出版」が行われましたが、ここにも大きな問題がありました。

つまり「リー・エバンス教材の使い方」が、本だけでは絶対に理解できない、という点です。

1980年代半ば頃から、僕はリー・エバンス「国内上陸した第一弾」で数年練習を続けましたが、それから20年の間に、稲森康利先生のメソッドや塩沢修三先生のメソッド、オスカー・ピーターソンの教材、バリー・ハリス/三上クニ氏の教材等により、まがりなりにも「ジャズピアノ」が弾けるようになっていました。

また「ジャズ理論」にも強くなると共に、自分で「ジャズ和声学」のメソッドを執筆できるようになりました。

そういう「一応は習得した者」から見れば、リー・エバンス教材はとても優れています。

且、その素晴らしさは、かっては良いと思えた「芸大和声」や「レッツ・プレイ・ジャズピアノ」のような「トレーニングペーパー」的な、「グレード制度的なもの」ではなく、正にバッハの「アンナ・マクダレーナの為の練習帳(小品集)」や「長谷川良男先生の大和声学教程や対位法他」や「ヘンリー・シャロンの和声」のように「深み」があるものです。

つまり「初級向けの課題」は、なるほど初級者でも一応は解答できますが、上級者が別の視点で全く違った解答ができます。

困るのは、そういう「説明」が全くなされていないのが、リー・エバンスに限らず、オスカー・ピーターソンにせよ、バッハにせよ、「芸術性の高いメソッド」の在り方なのです。

要するに、リー・エバンス教材で「指導する者」の音楽スキルが問われますが、それでも最低限度の「説明」は必要な事は明白です。

困る事のもう一点として、同じ「クラシックピアノの先生や生徒」であっても、米国人ならば「前提」としてできる事が、日本人だと「全く知らない」という事が多々あります。

例えば、京都に行きますと、「レンタル着物屋さん」が沢山あり、外国人観光客が、着物を着付けて貰って京都観光を楽しまれておられますが、日本人と同じような顔つきや体形である中国や韓国の方は当然として、欧米の白人女性も綺麗に着物を着こなされておられます。
勿論、「レンタル着物屋さん」が「正しい着付け」をされたからで、僕達日本人が観ても違和感のない仕上がりになっていますが、ハリウッド映画で出て来る「着物を着た日本人やアメリカ人」は大抵、変な着付けや、着物の選択になっています。

ハリウッドともなれば、本当は「正しい着付け」ができる人なぞ幾らでもいる筈ですが、「アメリカ人がイメージする着物の着方」になるから、なんとも奇抜な装いになる訳です。

同じ事が「リー・エバンス教材」にも当てはまり、米国のピアノの先生や生徒ならば、ジャズ経験がなくとも普通にできる事が、日本人だと、クラシックピアノの先生や生徒に限らず、ライブハウスで演奏しているジャズミュージシャンだろうとも、いわば「ハリウッド映画の着物の着こなし」的に本来とは違ったものになります。

つまり「振袖は未婚女性の晴れ着で、浴衣は本来カジュアルで、紋付は礼服、振袖は必ず下着である襦袢を着て、帯をしめる事云々」を説明するように、「楽譜のここは、こう弾いて、この記号は、こう解釈して云々」と説明しなければなりません。

その全ての説明は無理として、僕が「リー・エバンス教材国内版第二弾」の出版に「監修者」として参加した際には、実は「条件」として、いわば「リー・エバンス教材の使い方」と共に「日米の音楽感覚の違い」についても若干の説明を加える筈でした。

その為の原稿も提出しましたが、出版された教材のどこにもそれはなく、やたらと冊数こそ出版されたものの、果てして「リー・エバンス教材の使い方」がどれだけの人に理解できたのか不明のまま、市場からフェイドアウトしてしまった所存です。

という訳で、次回は「リー・エバンス教材」とは何なのか?についてお話します。














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