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ジャズの歴史1/自由黒人と奴隷黒人の話 [独断による音楽史]

皆さん、こんにちわ。「リー・エバンス・メソッド」について書いている筈が、いつのまにか「ジャズ歴史」の話になり、かつ、暫く間があいた事で、前回、何の話をしていたのか忘れてしまいました。

という訳で前回と重複する部分もありますが、再び「ジャズの歴史」として、ジャズの始まりについてお話させて頂きます。

19世紀の米国「自由黒人」とは?

後世に「ジャズ」と呼ばれる音楽スタイルが創成されたのは1920年代当時、米国のジャズ的音楽には二系統あり、一つがニューヨークのような「米国北部スタイル」。

もう一つがニューオリンズのような「米国南部スタイル」でした。

尤も「北部ジャズ」は「南部ジャズ」の影響或いはコピーでできたようです。

というのは、南北戦争の北軍戦勝後に全米で発令された「奴隷解放令」以前から、北部に限らず南部にも「奴隷ではない自由黒人」が存在しました。

この「自由黒人」の末裔が「ジャズの父」と呼ばれたデューク・エリントンですが、エリントンに限らず、北部」の「自由黒人」や「解放奴隷」の末裔が「ジャズの発展」に大きな役割を果たした事は誰ども分かりますが、ジャズの創成期である1920年代頃の北部黒人は、「生まれながらにジャズができた」という訳でなかったようです。

「ジャズ」の源流は、南部で発祥した「ブルース」や「ラグタイム」「黒人のマーチバンド」等にあり、これらが北上する際、中部の都市であるシカゴで3つが融合して「ジャズ」ができた、というのが定説です。

19世紀半ばの「南北戦争」終結により、少なくても法的には「奴隷」はなくなり、全ての黒人が「自由黒人」となった訳ですが、その時代以前、日本の江戸幕末から明治にかけて米国では法律上も「奴隷」「解放奴隷」「自由黒人」等の同じ黒人でも「人権」の具合が全く違う立場が存在しました。

また白人と黒人の混血児に関しても、南部と北部とでは全く異なる「法的立場」になりました。

別に「人種問題」を語りたい訳ではありませんが、「ジャズの歴史」を語る上で「人種問題」は避けて通れないのと、よく本に書いてあるような「綿摘みの奴隷労働の苦しさがブルース」を生んだ、という「伝説」はウソだらけなので、人種問題とからめて、ジャズの源流を作った黒人について、今日はお話をします。

奴隷解放令発令前から存在した「自由黒人」という法的身分

南北戦争終結以前に関して、米国黒人の全てが「奴隷」だった、と思われがちですが、実は白人と同等の権利を有する「自由黒人」という法的身分が存在しました。

完全に「奴隷制度」が敷かれたニューオリンズを始め米国南部の場合、主人が没後に奴隷への感謝として遺言により「解放」した結果「自由黒人」になったり、奴隷自身が貯金して自分を主人から買い取って解放され「自由黒人」になる、という場合はありました。

北部の場合、州によりますが、「奴隷という身分の存在を認めない」為に、その州に奴隷が逃げ込んでしまうと自動的に「自由黒人」になったり、南部の「自由黒人」が移住してきたりで、多くの「自由黒人」が住んていました。

とはいう物の「奴隷解放」を大義名分としてリンカーン大統領率いる北軍、つまり北部にも奴隷は存在しましたし、北軍の将軍にも奴隷を所有し、最後まで解放しなかった人もいました。

どうやら「南北戦争」の際に北軍が掲げた「奴隷解放の為の戦争」は大義名分に過ぎず、リンカーン率いる北軍による南部侵略が「南北戦争」の実態でしょう。

とは言え、北部の「自由黒人」が南北戦争終結以前から、南部の「奴隷黒人」とは比較にならない程にマしな生活を営んでいた事と、教育を受け、音楽に関してはピアノやバイオリンを学んだ人も少なくありませんでした。

では北部の「自由黒人」がピアノやバイオリンで、ブルースやラグタイム等のジャズの源流を演奏できたのか、というえば、それは不可能で、殆どの人はクラシック音楽や当時の米国流行歌を演奏していたようです。

その後、南北戦争に戦勝し、改めて「アメリカ合衆国」として仕切り直した北部政府は、ネイティブアメリカン(インディアン)やハワイアン(ハワイの先住民)等の支配(虐殺によって)成功し、時代が過ぎて
1920年代頃になると第一次世界大戦の戦勝から、米国は世界一繁栄した国となりました。

尤も軍需産業でバブルを迎えた北部と異なり、南部は農業不況もあり経済崩壊、その結果、大量の「黒人」が南部を脱出し、「民族大移動」ともいえる北上を始めました。

前述のように北部に元々住んでいた「黒人」は、「黒人だから」という理由だけで自然にジャズの源流であるラグタイムやブルースが弾けた訳では全くありませんでしだか、南部から流入してきた黒人や黒人文化の影響によって、ラグタイムやブルース等を「知る」事ができます。

いわば中国から入ってきた「中華そば」が日本的洗練で「日本のラーメン」になった如く、「南部の黒人音楽=いわば中華そば」が「日本のラーメン」へと変化あるいは進化したように「北部ジャズ」が造られます。

また「北部ジャズ」を作ったのは黒人だけではなく、ガーシュインやコール・ポーター等の北部のユダヤ系白人が多く関わりりますが、1920年代の米国人の感覚ではユダヤ人というのは、厳密な意味では「白人」ではありませんが、少なくとも音楽のような芸能界においては「白人」として支配層に属しました。

それはともかく、元々はローカルな「黒人音楽」だったジャズやその源流のラグタイムやブルース等は、北部でよきも悪しきも発展し、商業音楽の中心となり、南部にも逆輸出されただけでなく、世界中で大流行します。
「ニューオリンズ・ジャズ」はニューオリンズではなくシカゴで生まれた

ところで「北部ジャズ」の元になった「南部のジャズ」ですが、シンプルにいえば「南部のジャズ」とは「ニューオリンズ・ジャズ」を意味します。

この「ニューオリンズ・ジャズ」ですが、名前から察して「ニューオリンズで生まれた」と勘違いしている人が多いのですが、実際には南部ニューオリンズではなく、中部の都市シカゴで生まれました。

前述の1920年代の南部大不況による南部黒人の北部への「民族大移動」に際しては、北部のニューヨークは遠すぎました。

そこで中部の大都市シカゴで一休みしたり定住する黒人が大勢いましたが、彼らによって作られたのが「ニューオリンズ・ジャズ」なのです。

「シカゴで生まれたのだからシカゴ・ジャズ」と呼ぶべきではないか、と思われるかも知れませんが、実は「シカゴ・ジャズ」というスタイルも存在します。

これは元からシカゴによって住んでいた主に「白人」によって生まれた、といいますか「ニューオリンズから来た黒人のジャズ」を真似した音楽を指します。別名「ディキーランド・ジャズ」とも呼びます。

同じくシカゴで生まれた音楽だが、「ニューオリンズから来た黒人」が演奏すれば「ニューオリンズ・ジャズ」で、シカゴで生まれた白人や黒人が演奏すれば「ディキシーランド・ジャズ」と呼ぶのは、今ならば「差別!」という事になりましょうが、当時は通った話、というか、そもそも「ニューオリンズ・ジャズ」とか「ディキシーランド・ジャズ」とか分けていたのかどうも定かではありません。

これは蛇足になりますが、日本人で「ニューオリンズ・ジャズ」を愛好し、自分でも「ニューオリンズ・ジャズ」のプロアマ・ミュージシャンを名乗る人は少なくありませんが、名前の本来の主旨からすれば、いくら「ニューオリンズ・ジャズ」が好きで、研究しようとも、それは「ニューオリンズ・ジャズ」とは呼べません。

あくまで「ディキシーランド・ジャズ」なのですが、「ディキシーランドジャズの真似」をした訳でなく、「ニューオリンズ・ジャズの真似」をしたから、自分がやっているのは「ニューオリンズ・ジャズ」だ、といいたい気持ちは解る…。

「ブルース」と「ラグタイム」とでは同じアフリカ系米国人ながら「人種」が違った

ところで「ニューオリンズ・ジャズ」を創生した「南部から来た黒人」達ですが、これは1種類でなく、大別した2種類の「黒人」つまり「元奴隷黒人」と「元は混血黒人(クレオール)と呼ばれた人」がありました。

この辺りの話は、「米国黒人歴史のタブー」として、白人黒人双方から「なかった事」にしたい史実ですが、南部ニューオリンズには、「綿花摘みの苦しさからブルースを作った」という「伝説」となる「奴隷黒人」と共に、北部の「自由黒人」とは異なる「クレオール」と呼ばれる混血の黒人或いは白人が存在しました。

(ジャズの歴史2に続く)
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