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クラシックピアニストの為のリー・エバンス「ジャズメソッド」1 [Lee Evans Society]

こんにちわ。ジャズピアノの演奏と教育が本業[ひらめき]の藤井一成です。

僕個人の音楽教室は、大阪梅田にあるKimball Piano Salonですが、「教育プロジェクト」として「日本リー・エバンス協会」を主宰しています。

と言っても2009年頃から始まった「日本リー・エバンス協会」ですが、設立後、諸事情により僕は離れ、2004年頃に復帰と言いますか、活動実践がなかった協会を何とかしよう、という話になり、色々と試行錯誤し、結局、実際の活動開始は「再起動」となる2020年頃となります。

ところで「リー・エバンスってなに?」と思う人が殆どですので、説明しますと、

「ジャズピアノをクラシックピアノのように学べる米国の教育家リー・エバンス教授によるピアノとジャズのメソッド」となります。

それで「クラシックピアノ教室にピッタリのジャズメソッド」と提唱していますが、勿論、ジャズやポップス、ロック、ブルースのプロアマ・ミュージシャンにもお薦めできるメソッドですが、話の都合上「クラシックピアニストやレスナーに使って欲しいジャズメソッド」と言ってます。

なぜならば、僕自身が正に「クラシック系音大生~卒業生」だった頃に、「クラシック的に学べるジャズメソッド」としてリー・エバンスに飛びつき、色々と学び、二十数年を経て普及する立場と成り、
対象者として浮かんだのがプロアマ・クラシックピアニストやレスナーだからです。

という訳で、以前、お話した事と重複する部分も多々ありますが、今日は僕と「リー・エバンス・メソッド」の出会いや関りについてお話しする事で、同じ状況の方に対し、「リー・エバンス・メソッド」への関心を持って頂きたいと思います。

ジャズピアノを目指したクラシック系音大生の話

このブログでも何度か書きましたが、僕は学歴こそクラシック系音大作曲科出身ですが、クラシック作曲家を目指した訳でなく、高校生時分から目指したジャズピアノの基礎となるような音楽理論が学べるのではないか、と作曲科に潜り込んだような次第でした。

高校生時分は作曲科の受験勉強で忙しく、それから解放された音大入学後は「ジャズピアノの演奏活動」を始めようとした訳ですが、現実には「ジャズピアノ」なんて何も弾けない訳です。

それで悔し紛れにやっていたのが「クラシック理論による即興演奏」。

ジャズと言っても色々なスタイルがありますが、僕が十代だった1970年代は「オーソドックスなモダンジャズ」が時代遅れ(?)となり、チック・コリアやハービー・ハンコックのようにロックやファンクと融合し、電気楽器を駆使する「クロスオーバー(後のフュージョン)」を目指すのが一つの道。

もう一つは山下洋輔さんやセシル・テイラーのように「フリージャズ」と呼ばれる調性もリズムもない、下手すれば「めちゃくちゃ」な演奏スタイルが支持されました。

僕は「クラシックの作曲家を目指した訳ではない」とは言いましたが、元々ベートーヴェンに憧れて音楽入門し、その後、現代の音楽として、当初は「プログレッシブ・ロック」と呼ばれるクラシックの交響曲のようなロックに傾倒したり、或いは武満徹さんのような「現代音楽」を聴きまくったり、で「現代音楽」も好きでした。

そういえば、高校生時代に、後に大有名になるが、当時は無名だった吉松隆さんの作品発表を大阪の小さな会場である「ドイツ文化会館」の会議室で聴き、「この人は音楽は良い(好きだなぁ)」と思ったりしたものです。

或いは、これも後に大ブレークする「フリージャズ」のトランぺッター近藤等則さんやペーター・ブロッツマンさん達のライブを聴いたのも、この会議室ですが、今にして思えば「歴史的なコンサート」といえる程の内容ながら、客席は2~30人程度。

当時の「フリージャズ」のライブやコンサートと言えば、そんな程度でしたが、それに比べれば、遥かにメジャーだった「オーソドックスなジャズ」も大した市場がなかったのです。

生で聴くビル・エバンスのソロに戦慄を覚えました

今の僕は「1940~50年代スタイルのジャズ」をやったり、更に古い「1930年代スタイルのジャズ」をやったりしていますが、「新しいスタイル」である「スムースジャズ」と呼ばれる1990年代スタイルのジャズもやっています。

尤も1990年代スタイルが「新しく」て、1950年代スタイルのが「古い」のか、と言われれば、例えば僕の生徒は若いと二十歳前後、つまり2000年以後の生まれであり、1990年代だろうが、1950年代だろうが、「古い」事には違いがありません。

加えて「1990年代スタイルのスムースジャズ」とやらも実際には「1970年代のクローバー(フュージョン)の派生形」に過ぎず、ジャズの「進化」は1970年代止まりなんです。

そもそも「進化」とは何か?という問題があり、例えばベートーヴェンよりもリストが「進化」しているのか?と言われれば、確かに「進化」はしているものの、ではリストの方がベートーヴェンより上に位置する、とは誰も断言できないのです。

実際、ジャズの帝王と呼ばれたトランぺッターのマイルス・デイビスこそ、1950年代スタイル、1960年代スタイル、1970年代スタイルを一人で創成した偉人ですが、「マイルスの1950年代のレコードしか聴かない。1970年代以後の電化サウンド導入後のマイルスなんて大嫌いだー」なんてジャズマニアは掃いて捨てる程に存在します。

という訳で「進化」した方が良いとは限りませんが、1970年代当時は、クラシックに限らず、クラシックの現代音楽も、ロックも「進化」を続けており、誰もが「次はどういう進化をするのか?」と興味があった訳です。

とはいうものの「進化」の一つである「フリージャズ」のコンサートも、クラシックの「現代音楽」のコンサートもお客は全然集まらないのですが、高校生だった僕には、それはマイナス要因ではなく、なにやら尊いものに感じられた次第でありました。

1970年代後半になると、果たして「進化」が良いのか、という疑問が音楽ファンの方から沸き上がり、「オーソドックスなジャズ」の良さが再注目されたのと、1950年代や1960年代から地道な、或いは華々しい活動を続けていたジャズ・ミュージシャンの来日ラッシュが続きます。

これは、なんのかんの言っても、「フリージャズ」よりはマシにせよ、米国では「オーソドックスなジャズ」ではあまり稼げず、日本やヨーロッパに「出稼ぎに来る」という事情があったからですが、おかげで、今にして思えば「歴史に残るジャズの巨人」の演奏会を経験する事ができました。

1950年代にデビューしたトミー・フラナガンやアート・ファーマー、1960年前後に「ジャズピアノの語法を革新した」ビル・エバンスやマッコイ・タイナー、トニー・ウイリアムスやエルビン・ジョーンズ等。

若い人達に対し、「ビル・エバンスのコンサートに行ったよ」なんて言うと驚愕されるのは、ビル・エバンスというのは、ショパンやシューマンに匹敵する「歴史上の偉人」であり、そのコンサートというのは「音楽史の一コマ」だからです。

尤も当時は、そういう意識がなく、1978年のビル・エバンス大阪公演も、「色々とあるコンサートの一つ」に過ぎませんでした。

実際、当時、高校生だった僕は、学校帰りに、当時のガールフレンドと、厚生年金会館に向かいましたが、詰襟の学生服とセーラー服の高校生が客席に座っていると訝し気な視線を感じたのは、客席にいるのが「陰気なオジサン」ばかりだった事もありますが、客席に空席が目立ったからです。

厚生年金会館の「中ホール」なのに空席があり、つまり「当日券」でビル・エバンス・トリオが聴ける訳ですが、もし今、ビル・エバンスが生き返って日本公演すればチケットが十万円でも売り切れる筈ですが、当時の「ジャズ・コンサート」はこんな感じでした。

その後に行われた「フリージャズ」の巨匠アーチー・シェップ公演なぞ、人気のキース・ジャレット公演と同日だった事もあり、「中ホール」ながらガラガラの空席だらけ。

暫くしてから、習っていた音大の先生方の演奏会が、厚生年金会館の「大ホール」であり、出かけますと満席なのですが、ビル・エバンスやアーチー・シェップの「真摯な芸術」コンサートと比べると、音大の先生のクラシックピアノ演奏会は「学芸会」みたいなものにしか感じられず、「ジャズはマイナーな音楽だな」と痛感した次第。

ところでビル・エバンスについては、別な所でも書きましたが、僕としてはビル・エバンスも好きでしたが、トリオのドラマーを務めたフィリー・ジョー・ジョーンズに魅了されつつ、ベースやドラムを様なわないソロに「別世界」を感じました。

変な話で、その時はあまり感動しなくても、後になってジワジワと感動する、という事がありますが、ビル・エバンスのソロや、別なコンサートで来日したベニー・グッドマン・カルテットでのテディ・ウィルソンのピアノを聴けた事、アーチー・シェップを聴けた事は僕の財産となります。

そんな訳で「ビル・エバンスみたいなピアノが弾きたい!」と願う訳ですが、どうやればよいのか、全く分からなかったのが僕の十代~二十代前半でした。

どうにも、こうにも「行き詰まった」我流のジャズピアノ

長年、僕は「カフェピアニスト」としてホテル等で「ピアノ弾き」の稼業を続けました。要するに年間360回くらい演奏する訳で、その内、指が勝手に動いて「仕事」をこなす「自動ピアノ」のようになったしまい、加えて内心「演奏は嫌だなぁ」とも思うようになりました。

まぁ「好きで好きでたまらない」なんて感じている内はアマチュアであり、「嫌だけど、仕事だから頑張ろう!」なんて自分に号令をかけのがプロとも言えますが……。

そういう理屈でいえば、音大入試から解放された十八歳頃からは「人前で演奏がしたくて、したくてたまらない」アマチュアのミュージシャン生活を始めた訳です。

対して学校の「作曲のレッスン」は苦痛になりつつありましたが、今にして思えば「アマチュア・ミュージシャン生活を謳歌」するのでなく、学生時代には「作曲の勉強」に打ち込むべきでしたが、その辺りの計算ができないのが「子供」の困った考え方です。

先ほど、音大の先生の演奏会は「学芸会」と書きましたが、僕からすれば、そんな「学芸会」への「正規の作曲学生」としての出演なぞ「夢物語」でしかなく、かと言って、夢がかなうように努力する訳でもなく、いわば「演奏したい欲」さえ叶えればよい、とばかりに「ライブハウスのオーディション」を「フリージャズのピアニスト」として受け始めたのが18歳以後の話でした。

それで、結構、オーディションに合格したのは、僕の音楽が良かったからではなく、当時の「ライブハウス」は訳の分かんない未熟な若者を育てよう、という意識があったからだと思います。

問題は僕の「フリージャズのピアニスト」としての演奏ですが、一言に言えば「インチキ」というより言いようがない代物でした。

本当は「オーソドックスなジャズ」であるビル・エバンスやバリー・ハリス、ローランド・ハナのようなスタイ演奏したいのですが、オーソドックスな「ジャズピアノ」の方法なぞ、なにも知りません。

当時、出版された坂本輝先生の「レッツ・プレイ・ジャズピアノ」という教則本は「画期的なジャズピアノ・メソッド」だとは思いますが(今から思えば「バークリー音楽院メソッド」の亜流ながら)、書いてある事の半分も理解できませんでした。

結局、坂本先生の教材から「枯葉」や「レフトアローン」なぞを弾く訳ですが、我ながら、なんとも下手糞というか、出鱈目な演奏にしかならなくて放り出してしまいました。

そういえば「フリージャズ」の鬼才ピアニストである山下洋輔さんが著作のなかで「滅茶苦茶に弾いても構わない」みたいな事を述べらせていたので、じゃあ僕もできるかな、と「フリージャズ風」の演奏を始めました。

実は後になって分かるのですが、山下洋輔さんの音楽というのは、音楽理論に適い、且つ、とても高度に運営し、リズムも物凄くシビアに弾く訳で、「滅茶苦茶」ではなく「超絶技法」なのですが、そんな事は当時の僕は解らないから、正に「滅茶苦茶」にピアノを叩く訳です。

かと言っても、それも芸がないし、一応、「クラシックの音楽理論の基礎(初歩というべきか)」は学んでいるから、ジャズ理論は知らないものの、クラシック理論を基づいた「即興演奏」を始めます。

その内、出鱈目な学生だった僕も「フランス近代和声」やら「対位法」やらを勉強するに従い、今から思えば勘違いに過ぎませんが「フォーレの音楽」については、ある程度は「解析」できたように思えました。

それでもドビュッシーになると「なぜ、こういう音が造られたのか分からない」というのが、学業不振だった僕には解析できなかったのですが、「ドビュッシー風の和音」なぞを操れるになりました。

「ドビュッシー風和音」と「本物のドビュッシーの音楽の方法」は、泥水とコーヒー位に違う訳ですが、聴いてる方も素人だから、「ドビュッシー風和音」で即興すると「プロのフリージャズ・ピアニスト」だと勘違いされてしまう訳ですね。

何より自分が勘違いしているから強い、というか厚かましく、色々なオーディションを受けては「ライブ活動(笑)」を展開しますが、怖かったのは「本物のジャズミュージシャン」。

ライブハウスの人が「こちらフリージャズのピアニストの藤井さん」なんて紹介してくれても、例えば「オーソドックスなジャズ」を学んだ人ならば誰でも知っている「ツー・ファイブ・ワン」とか「オルタード・スケール」と言われても何の事か分からず「塩をかけられたナメクジ」のように後ずさりするしかありません。

そういえば後年、「ベーゼンドルファー・インペリアルを駆使したソロピアノで国民的人気を博する加古隆さん」は、ファッションモデルの奥様の影響か、音楽のみならずファッションも「お洒落」に生まれ変わりましたが、元々はハードな「フリージャズのピアニスト」でした。

1970年代に、加古さんは、パリ音楽院でオリビエ・メシアンに師事しつつ、汚いジーパン姿で「フリージャズ」のピアニストをしておられ、当時は日本では殆ど無名でしたが、里帰り公演をされたので、当時高校生だった僕はコンサートにいきました。

当時の加古さんは、なんともアングラな雰囲気で、帽子を被ってない為、伸ばしっぱなしの、三十代にして薄くなった頭髪を振り乱しての、セシル・テイラーとキース・ジャレットを混ぜ合わせたような凄い「フリージャズ」を、大阪会場である阪急ファイブホールで、パーカッションの富樫雅彦さんとのデュオで演奏されましたが、だたのカワイのグランドピアノから魔法のように美しい音楽を創造されたのでした。


加古隆さんも「オーソドックスなジャズ」なんて勉強してない筈ですが、クラシックや現代音楽を「本当に修得」されておられたから、正真正銘の「本物のフリージャズ」が演奏できた訳です。

その点、僕は「フリージャズ即興の根拠」にしていた「クラシック作曲理論」も、いい加減な学生だった事もあり「落第レベル」でしたから、「フリージャズ」も良く言って「稚拙」、現実には「インチキ」なものにしかなりませでした。

繰り返し言いますが、もし学校の先輩方のように「本物の現代音楽をバリバリに作曲される」レベルまで僕も学業に励んでおれば、僕の「フリージャズ」も根拠があるものだった訳ですが、逆に「クラシックもダメ」だったから「フリージャズ」も「インチキ」な代物でした。

にも拘わらず、ライブハウス等のオーディションに合格したのは、僕が「本当はインチキ」だが、「瞑想(笑)」したり「真剣な顔(笑)」で「情念をこめて演奏」したから、皆、「騙された(笑)」のですよね。

僕が若いころには確かなかったジャンルですが、僕がやっていたのは、後に「ヒーリング音楽」と呼ばれるものですが、言っちゃあ悪いが、「ヒーリング音楽」をやっている人は「真剣」なのでしょうが、大多数は「インチキなんですね。

だから「ヒーリング音楽のミュージシャン」なんて方が、それらしい顔で演奏されているのを観ると、笑ってしまいますが、若いころの僕こそが「インチキ・ヒーリング」の先駆者(笑)でした。

学歴詐称とか経歴詐称とかありますが、いわば「実力詐称」な訳ですけど、「本物のミュージシャン」の前に出るとビクビクするのも嫌だしたが、幸い「インチキ性」を指摘される事はなかったにせよ、段々と自分の「フリージャズ風のインチキ演奏」がどうにも嫌になりました。

それで「これではダメだー」とあるジャズ教室に「自首(笑)」つまり「入門願い」を出します。

「えっ、なんでプロの藤井さんが入学するの?」とライブハウスとジャズ教室両方の受付をやっていた女性から不信がられましたが、僕は自分の演奏が「プロ」どころか、「基礎が全くないインチキ」である事は痛感していた訳で、「人生(と言っても二十歳過ぎですが)をやり直そう」と軍門に下った次第。


ジャズ教室への不満

尤も「頭を丸めて出家」するような心づもりで「ジャズ教室」に入会したものの、結局、「ジャズ理論のバイブル」と呼ばれた渡邊貞夫著「ジャズスタディ」の最初の項が理解できた事、「ジャズコードやアドリブ」のパターンを覚えた程度で、大して進歩できませんでした。

今にして思えば、当時、京都にはジャズ教育家である藤井貞泰先や坂本輝先生が夫々教室を構えられ、「体系的なジャズ学習」ができた筈で、なんとかして入門すべきでしたが、僕は、それがどこにあるのか分からず、結局、入門できませんでした。

当時通っていた「ジャズ教室」からは「習うより慣れろ」式にレストランやバーのピアノ演奏の仕事を紹介してくれるのはありがたいが、肝心の「ジャズピアノの正統的な方法」はさっぱり学べません。

そんな時に出会ったのが「リー・エバンス・メソッド」でした。

おっとっと、「リー・エバンス・メソッド」についてお話する筈が、例によって、「誰も聴きたくない自伝」を長々と書いてしまいました。

次回「リー・エバンス・メソッド」と出会い、僕が何を学べたのか?についてお話します。
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