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脱「なんちゃってジャズ」が人生目標!リー・エバンス・メソッド2 [Lee Evans Society]

前回、僕が若い頃、「ジャズピアノを習いたくてジャズピアノ教室に入門したが、なんにも学べなかった」という話をしました。

僕は、一応、クラシック系音楽大学作曲科出身なので、最低限度の「音楽理論や和声学等の知識」があり、フォーレやドビュッシーの音楽の研究(?)もしていました。

それらの知識や経験を基に、学生時代は「フリージャズ」と呼ばれる「ピアノ即興演奏」でライブなんぞをやっていました。

この「フリージャズ風の即興演奏」は、僕が学生だった1980年代初頭には特別な名称がありませんでしたが、後に「ニューエイジ・ミュージック」とか「ヒーリング音楽」と呼ばれるスタイルで、ピアノの中村由利子さん、村松健さん、チェロの溝口肇さん等が華々しく活動を開始されていました。

或いは、それまではハードな「フリージャズ」のピアニストだった加古隆さんが、軟化した、というか「カフェで流れているBGMに使えそうなスタイル」に転換し、人気を博していました。

中村由利子さんや村松健さんには「基礎」がある!

或る意味、僕がやっていた「ピアノ即興演奏」と中村さんや村松さんの「ジャンル」は同じなのですが、全く違うのは中村さんが「ジャズの基礎」があり、村松さんは厳密には「ジャズ」ではないが近い音楽の「基礎」があった事です。

僕は「ジャズの基礎」がなく、「フリージャズ」をやっていた訳ですが、前回もお話しましたが、加古隆さんのように「モダンジャズの勉強こそしていないが、クラシック作曲の基礎がある」ならば一流の「フリージャズ」ピアニストになる事は可能なのです。

とは言え、当時の僕は「学校は出たけれども」本来の意味で「基礎」と呼べる程には「クラシック理論や作曲技能」に通じておらず、よって「加古隆さんのフリージャズ」に素人目には似ているが、実は「インチキ」な代物しか演奏できませんでした。

加えてビル・エバンスやバド・パウエル、マル・ウォルドロンのような「オーソドックスなモダンジャズ」の方が本当は好きだな、と思える事もあり、ある「ジャズ教室」にて「自分がこれまでインチキな即興演奏をやってきた事」を「自首(笑)」すると共に「一から学びたい」と願い出ました。

教えて貰うのではなく、技を盗むのだ、とは言われたものの

めでたく入会を許され「プロ養成科」なるものに通い始めたものの、「ジャズは学ぶものではない、慣れるものだー!」とか「教えて貰うのでなく、盗むものだー!」という尤もらしい説教と共に、実査には「何も学ばない」ままレッスン時間を消費する、という月日が流れました。

この「教えて貰うのではなく、技を盗むものだ」という発想自体は間違いではなく、後年、僕が「プロの見習い」位はできるようになった時、師匠が演奏し始めたので「どうやって弾いているのか?」と思って近くに寄ると「こら、勝手に見るな(技を盗むな)!」と怒鳴られつつ、それでも見ていると、師匠の方で僕が理解し易いように位置をズラして貰えました。

つまりは「技を盗め」とは「泥棒をしろ」という意味ではなく「真剣に学べ」という意味だろうし、こちらが真剣ならば、大体の場合、親切に教えてくれる筈です。

問題は、その相手に「学ぶべきもの」があるのは、或いは自分が勝手にそれを否定していないか、という点ですが、僕が通った「ジャズ教室」の先生とは世間話はできても、そもそも先生の演奏を聴いた事もなければ、具体的な勉強法を指示される事もありませんでした。

「レッスン」については、宿題も課題もなく、「自分がみて貰いたいものを持ってくる」というだけ。

先述の「教えて貰うのではなく盗む」とか「自分がみて貰いたいものを持ってくる」式のレッスンは必ずしも悪いものではなく、後年、僕はそうやって教えたを乞う事になりますが、それは「あるレベル以上」の話。

「何を練習すれば良いのか?」さえ分からない段階としては、「レッスン」時間を取って貰っても無意味。

周囲のミュージシャンの話では「レコードから演奏をコピーして研究すればいい」との事で、コピーをしましたが、結局「聴音(レコードの音の書取り)」になった程度で、精々、覚えたフレーズや和音の押さえ方を他で張り付けるだけ。

芸大和声やトレーニングペーパーが理想に思えた頃


「芸大和声」のように効率的に学べないものか?

そこで思い出したのが高校時代に作曲科の入試課題とされた、いわゆる「芸大和声」全三巻。僕は「目指したジャズピアノ修得に必要な音楽理論が学べるだろう」という理由で作曲科を志望しましたが、「クラシックの作曲」にも関心はありました。

だから高校二年生から専門の先生の元で「作曲の勉強(正確には作曲科入試の為の勉強)」を始めれたのは大きな喜びでしたが、「作曲の勉強」というから、「ベートーヴェンの音楽の精神性」について論じたり、僕が「天啓(笑)により想い付いたメロディー」を先生が批評してくれるのか、と思えば、そんな事は全くありませんでした。

「作曲」以前の「基礎」として「和声学」を学ばねばならず、音大の課題としては「芸大和声全三巻」の習得が必要であり、次のレッスンまでにこのページまで「課題」をやってこい、というのが「作曲のレッスン」でした。

「作曲家を目指す」と言っても、当時は「ト音記号の書き方」もロクに知らなかった僕には教科書である「芸大和声」は、課題をやろうにも、その意味すら理解できない難物ですが、二年も勉強すれば凡そは正解できるようになったのは、元々「芸大和声」が「誰がやってもできるようになる」内容だったからでしょう。

或いは遡ると、僕は中学校、高校生の間、学校の勉強用に「トレーニングペーパー」という通信教育を受けていました。

この「トレーニングペーパー」は、理解しなければならない項目を分解し、何度も繰り返し書かせる事でいつの間にか「学校のテスト」対策の勉強ができる、という優れものでした。

「芸大和声」全三巻は、いわば「和声学」の「トレーニングペーパー」であり、真面目に取り組めば、誰でも「和声学(正確には、この本)」が習得できる、というものでした。

要するに正誤が明確であり、とりあえず「芸大和声」については「確かに習得しました」と言えたのは、全三巻の課題を解答できたからです。

これも別な機会にお話しますが、後年、色々な事を学んだ後、想うに、「トレーニングペーパー」はさて置き、「芸大和声」についてはツマラナイと感じます。「トレーニングペーパー」については、それ自体ではなく、日本の学校教育自体がツマラナイので論外。

とはいうものの二十代前半頃の僕は「トレーニングペーパー」や「芸大和声」こそが「最高の教材」だと考えていたから、「ジャズ」についても「芸大和声」的な教材があるだろうと考えた訳です。

渡邊貞夫著「ジャズスタディ」は確かに名著だけど

そして、日本人として二人目として米国バークリー音楽院に留学された「日本のジャズ教育」の始祖であり、「日本のジャズ理論」の原典である渡邊貞夫先生著「ジャズスタディ」に注目しました。

この名著については学生時代に購入したものの、内容がまるで理解できませんでしたが、「ジャズ教室」に入学した頃には、最初の章くらいは「解答」できるようになっていました。もっとも最後のページまで習得するには何年もかかりましたけどね。

実は、今も時々、この「ジャズスタディ」を教材としてのレッスンや講座をしますが、1ページについて、僕の方が何ページもの「補足」しますが、これは渡邊貞夫のような素晴らしいミュージシャンが解ってなかったからではなく、1970年前後の日本で多くの人の独習を可能とする本にする為には「割り切って」しまわねばならない事が膨大だったからでしょう。

またバークリー音楽院の体質といいますか、「ここは、こうしなさい」と指示し、後は実践で学ぶうちで「それ以外の可能性」を発見すれば良い、の影響かと思います。

実際、渡邊貞夫先生も「ジャズスタディ」の中で「研究せよ」と指示している訳ですが、実はこれが問題。

「日本的マジメな生徒」は「研究」なぞやらず、只管に次の課題へと進級し、挙句、「間違ってさえなければ良いだろう」という変な「要領」を発揮します。

勿論「まともな先生」ならば、そういう「要領」の良さで小器用に解答したようなものは却下しますが、そうでない「グレード受験で実績のある先生」とやらは、先生自ら「要領」を教えてしまいます。

そういう生徒或いは先生の音楽というものはツマラナイものが多い。米国人の学生は、「要領よく勉強」したりせず、自らの音楽として消化できるまで試行錯誤するから「バークリー音楽院式」は有効ですが、下手に「日本的マジメさ」と結び付くと結果は悪い。

僕は「日本的マジメさ」とは無縁でしたが、「なるべくサボって解答しよう」という魂胆でしたから「芸大和声」は「好都合」だった訳です。

坂本輝先生の「レッツ・プレイ・ジャズピアノ」もある時点までは効果的でした

そういえば、渡邊貞夫先生著「ジャズスタディ」と平行して独学したのが坂本輝先生の「レッツ・プレイ・ジャズピアノ」シリーズでした。

坂本先生は、京都でもレッスンをしている、という話でしたから、思い切って坂本先生の京都会場を探し当ててでも入門すべきでしたが、当時は今と違いネット検索もできず、ご縁がなく、実際に坂本先生に習う事はできませでした。

坂本輝先生は、かつて渡邊貞夫カルテットのピアニストとして参加したご経験があるそうですが、短期間でクビ。要するにご自身も仰られるようにピアニストとしてイマイチだったそうで、日本では珍しい「教育専門」のジャズピアニストに転向されたそうです。

坂本先生の教材が当時の僕にはピッタリだと思えたのは、要するに初歩からの課題が大量にあり、只管、マジメに解答し、練習を続ければ、誰でも、それなりに上達する、というものだったからです。

ちなみに坂本先生の教材を、通っていた「ジャズ教室」の先生に見せると「こんなのジャズでない」とか「パターンの繰り返し練習ばかりやないか」と否定されましたが、「何にも教えてくれない」その先生よりは遥かに期待できました。

結局、2年位かけて市販されていた坂本先生の教材の全てを習得しましたが、その結果として、例えば「G7」といえば以前は「ソ‣シ・レ・ファ」と弾いていたのが「ファ・ラ・シ‣ミ」と「テンション」とよばれる9thや13th付きの「コードパターン」で弾けるようになった程度。

今となっては「そんなもの、どうって事はない」のですけど、それでも通っていた「ジャズ教室」のプロ養成科では「うまい」部類として、何かと演奏の仕事を紹介して貰えたのは、1980年代大阪のジャズレベルが低かった、からと言えましょう。

「なんちゃってジャズ」からの脱却を目指すにはどうすれば良いのか?

正確には、当時、大阪には大塚善正先生のようなベテランを筆頭に、市川修先生や寺井尚之先生のような若手の「本物のジャズピアニスト」が素晴らしい演奏を繰り広げていた訳で、「本物のジャズの世界」と共に僕が居着いた「なんちゃってジャズの世界」の二階層があった、という訳です。

ところで、坂本輝先生の市販教材では、精々「なんちゃってジャズの上級」程度にしか習得できませんでしたが、実際に習った事のある人の話では、坂本先生の実際のレッスンは、遥かに高度な事をやっておられたそうで、思い切って坂本先生に入門しなかったのは失敗といいますか、「遠回り」ではありました。


リー・エバンス・メソッドとの出会い

ところで「リー・エバンス・メソッドについて書いている」筈が、全然リー・エバンスの話にならず、相変わらず「誰も読みたくない(笑)自伝」を続けていますが、いよいよ、リー・エバンスの話になります。

「なんちゃってジャズの上級」には達したとは思うものの、到底「本物のジャズピアニスト」になれたとは思えなかった僕は、「ジャズ教室」に見切りをつけ、独学で色々な事を勉強していました。

実は、この頃「基礎」というか「人生」をやり直そう、とばかり、クラシックの和声学他、要するに「高校生に習った事」をもう一度、やり直していました。

今となっては否定的な「芸大和声」ですが、自主的に一から勉強してみますと、色々と学ぶ事が多く、かつ、自分の解答が正しいのかどうか悩みました。

本当は音大時代の恩師にでもお願いし、「人生のやり直し」学習成果をレッスンして貰うべきでしたが、若さの故の無知から、そういう事を言い出せば先生に「バカにされる」或いは「それまでの、いい加減な勉強」を叱られると考えたのですね。

勿論、僕がそんな事をお願いしたとて、「まともな先生」揃いの音大の恩師方の誰一人として、「おぉ、そうか、そうか、それは良い心がけだ」と歓迎しはて下さった筈ですが、そういう事さえ理解できていなかったのは、そもそも「人生を舐めていた」からでしょう。

和声や対位法だけでなく、クラシックピアノも敢えてツェルニーやバッハのインベンション等から「やり直した」訳ですが、ある時点から「目覚めてきた」のか、どうも「芸大和声」よりも、同じ東京芸大の長谷川良男先生の和声や対位法、島岡譲先生の音楽理論の方が良いな、と感じられるようになりました。

また「ジャズピアノ」については、確かに坂本輝先生の「レッツ・プレイ・ジャズピアノ」シリーズは効果的でしたが、「ピアノの正しい奏法」という観点ではイマイチ、早い話、「指使い」が書いてないから、変な弾き方をしてしまうのが難点でした。

僕は未だかつて「クラシックピアニスト」の経歴を持った事は一度もありませんが、子供の時からクラシックを学び、そもそもアルトゥール・ルービンシュタインというクラシックピアノの巨匠に痺れてしまい「ピアノの道」を志しました。

つまり「クラシックピアノ」の技能は常に向上させたいのですが、困った事に「なんちゃってジャズ」のピアノ演奏をする程に、クラシックピアノが下手になってしまいます。

それで慌てて「クラシックピアノ」の練習に励むと、今度はジャズやボサノバが弾けなくなります。

そういえば、学生時代にイタリア語を学ぶと、英語が読めなくて困りました。

例えば英語では「Fiive」は「ファイブ」と読みますが、イタリア語だと「フィーべ」になってしまい、その内、英語については何がなんだか解らなくなりましたが、似たような状況が起こりました。

また色々な先生から「クラシックとジャズとでは弾き方が違う!」なんて言われてたましたが、当時はクラシック声楽家がジャズをやりたいならば「酒とタバコで声を潰して来い」なんて言われていた時代で「クラシックを取るか、ジャズを取るか」で迷いました。

結論からいえば、「本物のジャズ」の弾き方であれば、弾くほどにクラシックも上達するし、逆に「本物クラシックの弾き方」ならジャズも弾ける、というものです。

要するに自分で「クラシックの弾き方」と思っていたものも「インチキ」ならば、「ジャズの弾き方」と言われたものも「インチキ」でした。
それを証明したのが「リー・エバンス」メソッドでした。

おっと、すいません、脱線から始まって軌道修正できないまま今日の時間が尽きました。
明日、「リー・エバンス・メソッド」との出会いについてお話します。

つづく





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