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ブルースは綿花労働の苦しみを歌った説はウソ [独断による音楽史]

「ピアノ入門~中級」用メソッドとして大人気の「ギロック」のジャズである「ニューオリンズ」スタイルについてお話している所でした。

前回のお話は、「ギロック・ジャズ」の原典である「ニューオリンズ・ジャズ」の発祥は、ニューオリンズではなく、「ニューオリンズの黒人ミュージシャンが中西部の都市シカゴに移住」して生まれた事。

シカゴ移住以前は相いれなかった「ブルース」「ラグタイム」「マーチバンド」の音楽或いはミュージシャンが、シカゴでは交流して生まれたのが「ニューオリンズ・ジャズ」である事。

「ブルース」とは「黒人奴隷が綿花畑での労働の苦しみを歌った」という通説はウソであり、実際には、南北戦争後、解放され、賃金労働者になって元黒人奴隷体達が集まる「酒場」で歌われた「他愛のない男女の恋愛話し」から「政治的な話」等の歌が元になっている事。

また「ブルース」という音楽形式と、職業ミュージシャンとしてブルース奏者が確立されたのは、「吉本芸人」のような部隊経験の積み重ねによってでした。

また、今日「ブルースのフレーズや音感」として認識されるものの大多数は、黒人のみならず白人も含め「職業ミュージシャン」による定型化と洗練を経ており、端的にはジャズ同様「クラシック音楽の一種」と言える程の「西洋音楽化」がなされたからこそ、日本人も真似できる訳です。

とはいえ、「米国黒人」の存在なしに、「ブルース」は生まれなかった事は確かですが、問題は「米国黒人とは何か?」についての理解が、日本人は元より、米国人自身にも乏しい、という点にあります。

アフリカ系米国人は「一つの人種」ではない、からこそ、ブルースやジャズが生まれた

僕達日本人が、欧米に住んだ場合に困惑するのは「日本人」という立場よりも「アジア人」という「人種」にまとめられてしまう点でしょう。

日本人と、韓国人と、中国人としでは、言語も違えば、文化も違いますが、一緒くたにされてしまい困るのは、例えばパーティーで、朝鮮語や中国語でスピーチされてもチンプンカンプンであり、或いは「歓迎」の意味で韓国朝鮮の伝統音楽を聴かされても、特に嬉しいとは思わない等です。

同じように「アフリカ人」と一括りにしても、部族が異なれば、日本語と中国語くらい異なるから、互いに会話は不可能であり、「アフリカ音楽」と言っても、言語同様に異なるから、一緒に歌う、という事は不可能だそうです。

蛇足ながら、僕は数年ほど台湾に住んでいた経験から、僅かに中国語が話せるのと、「香港ポップス」にも関わったから、その頃の「香港ポップス」には割合に詳しい訳ですが、逆に日本の歌謡曲やポップス、アニメや映画等は、台湾、韓国、中国、フィリピン等に進出し、親しまれているそうです。

僕は興味はありませんが「韓国ポップス」は日本にも熱心なファンがいると聞きます。まぁ、その原型は「日本のポップス」ではないか、という話はさて置き、本来は異なる文化圏であった「アジア」も、次第に交流し、特にインターネットの普及により、「文化の融合」が行われています。

僕の子供の頃(1970年代)は、東京からの転校生が、僕が通う大阪の小中学校に来ると、とにかく「言葉が違う」事に驚いたし、東京どころか、お隣の京都や神戸の人の言葉も、大阪と違う事に驚きました。

僕自身は、未だに「大阪弁」でないと、どうも感情と言葉が一致しないから、「大阪弁」の人との会話が最も気楽ですが、僕のスタッフは、非「大阪弁」出身者か、そもそも日本語が喋れない人だったりするので、「大阪弁で捲し立てる」なんて事をやるとコミュニケーションに支障がでるので、なんとか「標準語」に近い言語を使用する事になります。

同じ事が米国の農園に集められたアフリカ人にも行われ、それぞれの部族の言葉ではなく、「標準語」である英語を用いた訳ですが、現代に生きる僕が、中国人や韓国人と会話する際も、向こうが日本語に堪能な場合を除き、「英語が共通言語」になります。

更に言えば、相手が東アジア、或いは東南アジア人であろうが、「英語が通じ」かつ、バッハやショパンのようにクラシックや、「スターダスト」や「ミスティ」のような「ジャズ・スタンダード」が好きな人ならば、会話はスムースになります。

特にジャズは無理だろうが、「クラシックピアノが弾ける人」ならば、どこの国の人のだろうが、「同じ人種」だと感じるのは、「音楽は共通語」という陳腐な標語ではなく、「クラシック~ジャズは、どこの国にも浸透しやすいシステム(普遍性)」を持っているからだと言えましょう。

「ブルース」の初期、つまり「ブルース」という形式が確立する以前は、恐らく、元奴隷だった黒人の間でのみ「共通語」による共用できる音楽だった、と筈です。

しかし「ブルース」形式が確立されるに従い、実は非「アフリカ的な要素」=「クラシック的或いはヨーロッパ的なもの」が融合された筈で、融合されるに従い全米で流行し、流行するに従い、原点の元奴隷黒人達も「ヨーロッパ的なものが融合された=アメリカ的なブルース」に影響されます。

実際、1903年に「クラシック音楽の高等教育を受けた黒人」であるW・C・ハンディ(写真)が出版した「ブルース」と秀した沢山の曲が、その後の「ブルース」確立に大きく影響します。
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その事で、遥か昔の「アフリカ源流」の言語や文化は言うに及ばず、「黒人(アフリカ系米国人)」内でも色々に分かれていた言語や文化、更には「人種」が一つに融合されていきました。

「ブルース」とは対照的な「ラグタイム」や「ゴスペル」

「ブルース」についての「伝説」を打破(笑)する事はどうでも構いませんが、「ジャズ」の歴史を認識するには、やはり「アフリカ系米国人」の歴史については、ある程度、知るべきですから、元の「ジャズピアノ・メソッド」の話からは離れてしまいますが、話を続けませんしょう。

「アフリカ系米国人」いわゆる「黒人」については、本来の「アフリカ人」時代は様々な「部族」からなり、部族による言語や文化の違いは、日本と中国、韓国、タイ、ベトナム程に違う、という事を前述しました。

しかし、米国に奴隷として拉致され、異なる部族が一緒くたにされる中、「黒人奴隷」として一つにまとめられてしまいます。

では「黒人奴隷」は一つの「人種」として皆同じなのか、といえば、個性は別して、地域によって、まるで異なる「人種」として米国生活を過ごす事になります。

これは、例えば、南部のある地域で、「優しい主人」か「無慈悲な主人」かで苦しみが違う、とか、同じ主人に買われた奴隷としての立場は同じだが、一方は過酷な綿花摘み労働に従事され、一方は比較的楽な女中や召使にされた、という違いではありません。

変な例えで申し訳ありませんが、東南アジアで捕獲された野生の猿が、欧米や日本に「実験用」として送られるのか、現地で「食用」にされるのか、或いは現地や中国あたりで「ペット」にされるのか、という程に、生存自体が異なる程の違いが、アフリカから米国に拉致されてきた人々に与えられてしまます。

同じアフリカ系米国人を源流とする音楽として「ブルース」「ゴスペル」「ラグタイム」等がありますが、今でこそ、それらのウチのどの音楽を選択するかは、単に「好みの問題」ですが、それぞれの音楽が発祥した当時である19世紀末においては、「どの種類の黒人なのか?」が決めてでした。

大雑把に言えば、元「奴隷」だった黒人が選択するのが「ブルース」や「ゴスペル」、「クレオール」と呼ばれた混血黒人が選択するのが「ラグタイム」。

実際には、そう明確に職業選択ならぬ音楽選択する訳ではない筈ですが、大雑把な傾向として、「どの種類の黒人なのか?」によって異なる傾向にあった事も確かです。

いわば九州の人が、大阪でラーメン店を開業する際に「京風ラーメン」でなく「九州ラーメン」を選択した方が成功する率が高い、というのと同じです。

という訳で、次回はブルースとは対極ともいえるゴスペルやラグタイムについてお話します。

つづく

大阪梅田芸術劇場北向い Kimball Piano Salon 音楽教室 ジャズピアノ科講師 藤井一成
http://www.eonet.ne.jp/~pianosalon/Kimball_Piano_Salon
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「ギロック」の「ニューオリンズ・ジャズ」スタイルとは?その1 [Lee Evans Society]

専ら、僕が代表を務めるLee Evans Society of Japan)が提唱する「リー・エバンス」メソッドと、「バスティン」や「ギロック」等の違いについてお話しています。

「ピアノ入門~中級」程度を対象とする点は同じ。「バスティン」はクラシック重視で、「ギロック」はクラシックとジャズ、ヒーリング等様々。「リー・エバンス」は基本「ジャズ」ですね。

ちなみに「リー・エバンス」の「ピアノ入門~中級」対象課程は、「ジャズ的な事」も多く含まれますが、「ピアノが弾けるようになる事」「基本的な音楽理論等が学べる」等にも力点があり、「クラシックピアノ教室」での使用が想定されています。

但し、「リー・エバンス」の場合、中上級になると、完全に「ジャズ」となり、ジャズピアノの基礎がないと使えない仕組みになっています。

また「リー・エバンス」の場合、中上級課程は、リー・エバンス先生ご自身の演奏すたいるである「1960~70年代のLounge Jazz (ジャズ・ロック、ボサノバ、モード奏法等)」のジャズスタイルですが、「ピアノ入門~中級」については「1920年代の初期ジャズ」スタイルとなります。

日本では「ジャズ初級」といえば1950~60年代のウィントン・ケリーやビル・エバンス等の「モダンジャズ」の大ピアニストの演奏譜を、勝手に初心者用に切り取って使う「なんちゃってジャズ」が殆どですが、米国の場合は「古いスタイル=ジャズの原典」を学ばせる、というのが常識なようです。

その点では「バスティン」や「ギロック」も同様で、「ギロック」は1920年代の「ニューオリンズ・ジャズ」スタイル、バスティンは19世紀末~1910年代の「ラグタイム」を「ジャズピアノの初級」として用います。

「リー・エバンス」の「北部ジャズ」も良いが、「ギロック」の「南部ジャズ」も良い! ところで前回も書きましたが、僕は「リー・エバンス」を普及させる立場ですが、僕自身のレッスンでは、「リー・エバンス」のみならず「バスティン」や「ギロック」も教材として使います。 「バスティン」は、ちょっと違うタイプの教材なので今日は脇に置くとして、「ギロック」というか、正確には「ギロック」派の「マーサ・ミアー」さんの「Jazz.Rag&Bluese」全二十巻は、僕の教室の推奨教材でもあります。 生徒さんの好みで「リー・エバンス」と「ギロック(マーサ・ミアー)」の何れかを選択して貰ってますが、その選択は生徒さんによる音楽志向=好みで決めて貰っています。 では生徒さんの「好み」はどこに因るのか、といえば、同じ「ジャズ」ながら、「ギロック」が「南部ジャズ」であるに対し、「リー・エバンス」は「北部ジャズ」という違いがあります。 僕自身は、多分、「北部ジャズ」の系統に属するピアノ奏者でずか、多くの生徒さん同様、僕も「南部ジャズ」も大好き。且つ変な話ですが、教室(Kimball Piano Salon 大阪梅田)の練習室にあるキンボールピアノの音色とも合う、という訳で、ライバル(?)の「ギロック/マーサ・ミアー」も結構愛用しています。 という訳で、本来、今日は「リー・エバンス」のスタイルである「北部ジャズ」についてお話しする筈でしたが、ちょっと予定を変更し、「ギロック」の「ニューオリンズ」スタイルのジャズについて追加でお話させて頂きます。 「ギロック」は「ニューオリンズ・ジャズ」ではなく「ニューオリンズ」スタイルのジャズ 「ギロック」は、ウィリアム・ギロック先生以下「ギロック派」のグレンダ・オースチン、キャサリン・ロリンさん、マーサ・ミアーさん達は米国の南部或いは南部に近い地域の出身だったり住んだりしています。 だからと言う理由だけでもありませんが、「ギロック」は南部の「ニューオリンズ・ジャズ」スタイルで作曲されています。 対して北部ニューヨーク出身のリー・エバンス先生は「北部ジャズ」スタイルですが、南部生まれだから「南部ジャズ」、北部生まれだから「北部ジャズ」とは一概にいえなません。 そもそも「南部ジャズ」というジャンルが存在したのは1920年代頃までで、それ以後は「北部ジャズ」に統合されており、ギロック先生以下が「南部に住んでいるから」と言って、必ずしも「南部ジャズ」にこだわる必要はなく、バリバリの「北部ジャズ」を展開する事も可能な筈です。 にも拘わらずギロック先生以下が「南部ジャズ」に拘るのは、「南部のジャズ」だからでなく、「1920年代の音楽」だからという理由かと思われます。 前述のように「ジャズの初級」としては、「1950~60年代のモダンジャズの下手なコピー=なんちゃってジャズ」ではなく、1920年代以前の「ジャズの古典や、ジャズの源流であるブルースやラグタイム等」を学ばせるべき、という考え方が米国の常識です。 ですから南部に住むギロック先生以下が「1920年代のジャズ」である「ニューオリンズ・ジャズ」を用い、北部のリー・エバンス先生が1920年代の「北部ジャズ」を用いるのは理に適っています。 問題は「南部ジャズ」と「北部ジャズ」の違いですね。 1920年代頃までの米国は南北で別に国だった ジャズの源流(前身)として19世紀半ばの米国「南北戦争」後に南部で発祥した「ブルース」や「ラグタイム」等のいわゆる「米国の黒人音楽」を上げる事ができます。 これらの「米国黒人音楽」は南部で生まれ、やがて北部に伝わり、北部式の発展を経た後、南部に逆輸入され…と南北関係のない「ジャズ」へと進化しますが、本来、米国は南北で別な国、と言える程の異なる文化圏を持つ国家でした。 日本の明治維新が起った1865年に終結した「南北戦争」は、今の感覚では「内戦」ですが、当時は隣接する二つの国が戦争した訳で、その戦死者数は第二次世界大戦時の米軍の被害を上回ります。 北部と南部、更に西部と東部とで、いわば韓国と北朝鮮位に文化も法律も異なっていた訳ですが、「ジャズ」も南部と北部とで違っていました。 正確には南北が実質的には別な国だった時代には「ジャズ」という音楽ジャンルは存在せず、「ジャズ」が一般化するのは南北が完全に統合された1930年代以後の話です。 では、それ以前に「ジャズ」はなかったのか、と言えば、1920年代頃には、南部、北部共、今の感覚で「ジャズ」と呼べるもの生まれ、大人気を博していました。 大雑把に分類ですが、南部のは「ニューオリンズ・ジャズ」、北部は未だに名前がないので、僕達が「ガーシュイン・ジャズ」とか「チャールストン・ジャズ」とか呼んでいる音楽が夫々の地域で大流行しています。 「ニューオリンズ・ジャズ」はシカゴで生まれた ところで「ギロック」は自らの「ジャズ」を「ニューオリンズ・スタイル」と呼んでいますが、これは微妙な表現。うるさく突っ込むと実は「ギロック」は「ニューオリンズ・ジャズ」ではなく、「ニューオリンズ・スタイル(ニューオリンズ風と呼ぶべきか)」のジャズと言えます。 これは勘違いされている話ですが、「ニューオリンズ・ジャズ」はニューオリンズで生まれた訳でなく、中西部の都市「シカゴ」で生まれました。 つまりニューオリンズ出身のミュージシャンが、ニューオリンズ他「南部不況」が原因で、ニューオリンズを捨て北上するも、ニューヨークは遠すぎる、中間のシカゴが住みつきました。 その際、ニューオリンズ在住時代は、互いに反目しあっていた「ラグタイム」「ブルース」「マーチバンド」のミュージシャン或いは音楽スタイルが、合併したできたのが新しい音楽スタイルが生まれました。 それが今日「ニューオリンズ・ジャズ」と呼ばれたスタイルです。 つまり「ニューオリンズ出身」でないと「ニューオリンズ・ジャズ」ではない訳ですが、例えばシカゴ出身のミュージシャンが「ニューオリンズ・ジャズ」を真似たものは、「ニューオリンズ風」に過ぎないとも言えますが、「ディキシーランド・ジャズ」という呼び方も生まれました。 例えば大阪人が「博多ラーメン」を店を出しても、厳密には「博多ラーメン」ではなく「博多風ラーメン」に過ぎません。ならば開き直って、大阪風味も加えた「大阪ラーメン」を確立した、というのが原型の「ニューオリンズ・ジャズ」と「ディキシーランド・ジャズ」の違いです。 ちなみに「ニューオリンズ・ジャズ」のミュージシャンは大多数が黒人ですが、「ディキシーランド・ジャズ」は白人。そして白人による音楽だからという理由で、北部ニューヨークにも「ディキシーランド・ジャズ」が上陸し、更にニューヨーク式技術を加えたものが、逆に原典の「ニューオリンズ・ジャズ」に影響したりします。 いわば「博多ラーメン」が大阪で「大阪ラーメン」になり、更にそれが東京に使わって「東京ラーメン」になった、という流れが1910~20年代の米国音楽で起こります。(注;ラーメンの例え話は、実際のラーメンの歴史とは全く無関係です) 話を「ギロック」に戻せば、テキサス出身の白人であるギロック先生達によるジャズは、厳密には「ニューオリンズ・ジャズ」ではなく「テキサス・ジャズ」という事になりますが、本来の意味での「ニューオリンズ・ジャズ」とは、単に出身地域だけでなく「1920年代の」という時代区分も問われます。 つまり近年のニューオリンズ出身の黒人が「ニューオリンズ・ジャズ」のスタイルで演奏したからと言って、それは「ニューオリンズ・ジャズ」ではなく、「ニューオリンズ・ジャズ風」に過ぎない、となる訳です。 その辺りを踏まえて「ギロック」は「ニューオリンズ・ジャズ」とは言わず、「ニューオリンズ・スタイル(ニューオリンズ風)」と称されておられる訳ですが、だからと言って「ギロック」がインチキではなく、「ニューオリンズ・ジャズ」の正しい伝承者だある事は確かです。 つづく
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