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ラグタイムは「即興がない楽譜に書かれた音楽」はウソ?1 [独断による音楽史]

米国の「ジャズピアノ教材」である「リー・エバンス教材」についてお話をしている所でした。

日本では「初心者用のジャズ教材」といえば、例えば「ビル・エバンスの名演」レコードから「ワルツ・フォー・デビュー」あたりをコピーし、簡単に、といいますか安易な編曲をしたものを弾かせる、とかの「なんちゃってジャズ」が少なくありません。

対して米国の場合、「ジャズの基礎」として「1920年代の初期ジャズ」やそれ以前の「ジャズの源流」であるブルースやラグタイム等の音楽を学ばせる事が「教育の場」では多いようです。

尤も日本人に限らず米国人も「1920年代のジャズやそれ以前」については知らなかったり、音楽スタイルや歴史を正しく理解していない人が大多数なので、「ジャズの歴史」本が多数出版されています。

僕も興味があり、「ラグタイム」と呼ばれる「19世紀末から20世紀初頭に流行したジャズの源流の一つ」について研究しましたが、色々と調べる内に、「ジャズの歴史」本の多くが、同じ元ネタ本から書かれており、且つ元ネタ本自体が間違っているので、あまり信頼できないな、と分かりました。

「ジャズの歴史」について考える場合、どうしても「米国黒人の歴史」について知る必要がありますが、そもそも「米国黒人の歴史」或いは「米国史」自体が偏重あるいは大雑把に割り切られており、「ジャズの歴史」について考える場合に誤ってしまう、という事も分かりました。

…いわく「南部の奴隷農園での綿花摘み労働の苦しさがブルースを生んだ」→そもそも奴隷制時代には「ブルース」は存在せず、「奴隷解放後」に生まれた新しい職業である「芸人」によって徐々に「ブルース」が形成された。

…いわく「黒人奴隷と白人の奴隷農園主」→実は南北戦争時には、「奴隷農園」の主人の半数が「黒人」でした。

…いわく「南北戦争は、奴隷解放を掲げたリンカーン大統領率いる北軍による正義の闘いだ」→北軍の将軍には奴隷を所有し、最後まで解放しなかった者が少なくなく、また、南北戦争後には、ネイティブアメリカン(いわゆるインディアン)の大量虐殺を行った。

等々学校で習った「米国史」とは、かなり異なる事実があり、それを前提に「ジャズの歴史」を考えないと間違ってしまう分が多々ある訳です。

という訳で「間違いだらけ(笑)の米国史」の指摘しつつ、が、「ジャズの源流」の一つである「ラグタイム」について、今日は考えてみたいと思います。

そもそも「ニューオリンズ・ジャズ」はニューオリンズで生まれていない!

「ジャズ」が生まれたのは1920年代頃だと言われていますが、当時の「ジャズ」には「北部ニューヨークのジャズ」と「南部ニューオリンズジャズ」の二つの流れがありました。

厳密にいえば「南部ニューオリンズ」を基に、それまで「ジャズ」を聴いた事がなかった人達が作ったのが「北部ジャズ」な訳で、やはり「南部ニューオリンズ」こそ「ジャズの源流」と言えましょう。

但し、勘違いされる事が多いのですが、「ニューオリンズ」自体には「ジャズ」はなく、ニューオリンズ出身の黒人音楽家で、米国中部の都市「シカゴ」で作り上げたのが「ニューオリンズ・ジャズ」だった訳です。

蛇足ながら「シカゴ・ジャズ」というスタイルもありますが、これは「ニューオリンズ出身の黒人」の音楽を聴いて、主に白人が真似して作られた音楽で、その一人として「ベニー・グッドマン」がいます。

ベニー・グッドマンは厳密には「ユダヤ系(白人と看做されない場合がある)」ですが、白黒大別すれば「白人」である音楽家ですが、ベニー・グッドマンこそ後世1930年代の「スウィングジャズの王様」と呼ばれた偉人で、マイルス・デイヴィスのような黒人ジャズメンもグッドマンの影響を受けています。

別に「白人」の肩を持つ訳ではありませんが、黒人が造り、白人が発展させて新しい音楽を作り、それを基調に黒人が新しい音楽を作り、更に白人が発展させる、というのがジャズに限らず米国音楽の毎度のパターンです。

ところで1920年代の中部の都市シカゴが創成された「ニューオリンズ・ジャズ」ですが、19世紀末に南部ニューオリンズで生まれた「ラグタイム」「ブルース」「マーチバンド」等の「黒人音楽」が融合されて出来た、とも言われています。

「ブルース」に関しては、前回、南北戦争後の「奴隷解放」により「奴隷」から「賃金労働者」になった元奴隷黒人向けの酒場等で、最初はアマチュア、やがてセミプロ~プロになった「歌手」或いは「芸人」によって歌われた音楽である、とお話しました。

では「ラグタイム」はどうなのか?

これは「クレオール(混血黒人)」と呼ばれる「黒人」について知る必要がありますので、今から、お話しましょう。

「クレオール」の没落が「ラグタイム」を生んだ?

16~19世紀半ば(日本の幕末)の米国では「奴隷制度」があり、アフリカから拉致されてきた人々が「奴隷」として人権のない生活を強いられた事は多くの人が知るところです。

それ故に「奴隷黒人の苦しみがブルースを生んだ」という短絡的な発想が生まれた訳ですが、ややこしいのは全ての黒人が「奴隷」だった訳ではない、という事実です。

「奴隷」ではなくなった人達は「解放奴隷」或いは「自由黒人」と呼ばれましたが、これは元主人による公式の手続きを経ての立場であり、当然、自立する為の何らかの職業を持ちました。

もう一つが「奴隷黒人女性」と「白人の主人」との間にできた「混血児」です。

これは日本ではあまり知られていない事実ですが、ニューオリンズは、19世紀初頭までフランス領でしたが、ナポレオン三世によって米国に譲渡されました。

しかしフランス領時代の文化のみならず「法律」もフランス時代のものが維持されました。実はフランスには「奴隷制度」はなく、ニューオリンズ経済を支えた「奴隷制度による農園」とは矛盾しますが、
それはさて置き、元フランス領や元スペイン領での「奴隷制度」には特殊な規則がありました。

これはフランスやスペインの実質的国教であるキリスト教カソリックの影響で、「奴隷黒人女性」と「白人主人」との間に生まれた「混血児=クレオール」は、主人の側、つまり「白人」という扱いを受けます。

厳密にいえば、フランスやスペインのカソリック文化や法律の元では、そもそも「白人」や「黒人」という概念はなく、「フランス人(或いはスペイン人)」か「異教徒」という区分けしかありませんでした。

つまりアフリカ人の血統だろうが「カソリック教徒のフランス人」ならば良くて、プロテスタントの英国人やアフリかのブードー教徒なぞは「人ではない」という扱いだった訳です。

そして、これも勘違いされる事が多いのですが、「奴隷制度」が存在した三百年間、ローマ・カトリック教会は積極的にはアフリカ人やアフリカ系米国人(黒人)に布教をしませんでした。

なぜならば「カソリックに入信」した時点で「人間」扱いが必要となり、必然的に「奴隷制度」が成り立たなくなります。

話は逸れますが、中世戦国時代、スペインによって日本にもキリスト教カソリックがもたらされ、熱心な「キリシタン大名」の後押しもあり、四人の日本人キリスト教徒の少年がはるばるローマやスペインを訪れます。

その際、ローマやスペインで少年達は異例の歓待を受けたそうですが、反面、ローマ教会は「キリスト教徒でない」日本人を「奴隷」として「購入」し、フィリピン等に連れ去ります。

その事についてローマ教会の「非道」を謗る日本人は少なくありませんが、そもそも、当時、日本では「奴隷制度」があり、それは米国のと違い世襲の身分ではなく、戦に負けた地域の婦女子だったり農民だったりしました。

更に時代を遡り鎌倉時代になれば、世襲の「身分」として「奴隷」があり、例えば四天王寺等の仏教寺院でも「奴隷」が使われた訳で、格別、ローマ教会が非道だった訳ではなく、日本に来たスペイン人達は日本の産物の一種として日本人奴隷を「購入」したのでしょう。

反面、カソリックに帰依した日本人は「キリスト教徒」つまり「人間」扱いを受けた訳ですが、話を「混血黒人=クレオール」に戻せば、彼らも「人間」つまり「フランス人」としての扱いを受けました。

ここは微妙な所ですが、日本だと徳川将軍や大名の子供を産んだお女中は、子供の母親として、俄かに高い身分が与えられるのですが、フランスやスペインの場合、「混血児」こそは「フランス人=人間」扱いされるも、母親である奴隷黒人女性は、相変わらず「奴隷」身分のままでした。

ここは更に微妙な話ですが、「奴隷農園」といえば、映画に出て来るような「白亜のお屋敷」と沢山の奴隷達が働く農園というイメージですが、そういう「大農園」は例外で、大部分の「奴隷農園」は、主人一人、奴隷一人を最低限に、精々、主人の家族と奴隷の一家族という構成だったようです。

案外に多かった事例として、「嫁の来てがない貧乏白人」が漸く労働力としての男性奴隷と共に、実質的な「嫁さん」を兼ねた女性奴隷を購入し、その女性との間に、合意或いは強制によって子供を作る、というパターンでした。

その場合に、全く不本意な暴力的な性被害もあれば、ある程度「合意」したような関係もあった筈で、法的身分は「女性奴隷」だが、実質的夫人に収まる、というケースも皆無ではなかったようです。いずれにせよ、経緯が残酷なので認められませんが…

「混血児=クレオール」の母親である奴隷女性の待遇については不明ですが、「混血児」自身は少なくとも法的には「奴隷」ではなく、「フランス人」としての法的身分を獲ました。

勿論、映画に出て来るような沢山の奴隷が労働する「白亜のお屋敷」の場合、いくら法的には「フランス人」だと言っても、主人の奥方には受け入れられるはずがなく、精々、召使頭等の「奴隷ではない使用人」に加えられました。

対して大多数の「貧乏農園」では、混血児が「跡取り息子」として育てられ、実際に主人亡き後、農園を相続し、或いは商工業に転じる場合もありましたが、前述の如く、ニューオリンズでは厳として「奴隷制度」が存在した反面、「混血児=クレオール」は「フランス人」として生活し、実際、南北戦争時分のニューオリンズの市会議員や銀行家の半分は「混血児」で占められました。

また南北戦争にも「南軍」の立場で参加。

問題は「奴隷農園の主人」としての「混血児=クレオール」の立場で、奴隷達に対する扱いが、なまじの「白人」よりも厳しく、冷たいものだった、と言われています。

「混血児」男性主人と、「奴隷女性」との交流はよきも悪しきも皆無に等しく、結婚に際しては、悪くて「混血児」同士、できれば「白人」と結婚し、代が下がるに従い「白人」になっていきました。

だから米国「白人」の中には、先祖に黒人やインディアンの血統が混じっている事例が少なくない、とも言われています。

ところで、この「混血児(以下クレオール)」と「ラグタイム」との関係ですが、これも、なかなか、ややこしいカラみがあります。

つづく


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