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ハノンでピアノは上達しますか?というご質問 [レッスン]

こんにちは。最近、時間があれば、新しいホームページ用の原稿を書く時間に費やしていますが、色々な人にレッスンしていると新たに気づく事や考えさせられる事が多々あり、それこそ僕自身にとっても「生徒さんにレッスンをする事」で得られる楽しみの一つです。

今日も「趣味でジャズピアノを習っておられる」男性の生徒さんから、「ハノンの練習に時間をかければピアノの上達が早くなりますか?」とのご質問を頂きました。

「ハノンの効用(というか効用の無さ)」について以前、書いた事がありますが、その頃と、今とでは僕の考えも変わったので、改めて「ハノンの効用」について考えてみましょう。

ハノンを練習すれば「ハノンが上達」します

確実に言える事は、ハノンやチェルニー等を一生懸命練習すれば、ハノンなりチェルニーが上達します。だからと言ってピアノが上達し、例えばバッハやショパン、或いはジャズを弾く能力が高まるのか?と言えば、無関係だと思われます。

なるほど「ハノンの半時間くらい練習すると指がよく動くようになり、本来の課題(バッハなりジャズなり)がスラスラと弾けるようになる!」という話は判らなくもありません。

ではハノンに充てた半時間なり一時間なりを、本来の課題にあてても、その時間分程には、バッハなりジャズなりが「スラスラと弾けるようになる」という事はないのか?

例えば、僕がクラシックのピアニストで「ショパンの前奏曲三番」を本番で弾きたいとして、今から一時間ハノンを練習した後にショパンを練習した方が効率が良いのか、その一時間分を余計にショパンを練習した方が良いのか、結構悩む所ですね。

僕もハノンを全然弾かないのか?といえば、たまにハノンを練習する時があります。それはどういう時かといえば「練習する気力がない時」。

何にも弾く気にならないが、「頭を使わずに弾ける」ハノンくらいならば弾ける、という時もままあります。何も弾かないよりは、ハノンでも弾いて「指を動かした方がマシだろうな」とは思います。

或いは日々「練習時間」を定めているものの、どうも「練習を開始する気にならない時」もハノンを弾けばよいかも知れません。

しかし、振り返ってみれば「ハノン」に時間を費やしたからと言って得る者は多くないように感じます。

ハノンのデメリットは「時間の無駄」に加えて「指だけ動かす癖」がつく事


僕の「自伝(笑)」なんぞ書いても仕方ないのですが、僕自身はティーンエイジャーから二十代前半にかけて、矢鱈と「ハノン」に時間をかけていました。

僕は、学校こそ「クラシック系音大」でしたが、「ピアノ科」ではなく、「作曲科」だった事から、大してピアノの腕前は必要なかったのですが、僕の場合、そもそも「クラシックの作曲家」を目指した訳でなく、目標は「ジャズピアニストになる事」でした。

今はどうなっているのか知りませんが、僕がティーンエイジャー時分の、僕の母校ピアノ科に入学するとなればショパンやリストの難曲をバリバリに弾きこなさなければならず、そんな事は到底不可能だった事と、「ジャズピアニストになる為」には、リストの難曲を弾きこなす技術はなくても構わないが、「作曲」や音楽理論的な事は相当に必要。

だから「ピアノ科が無理」という消去法と「音楽理論や作曲を学びたい」という積極的理由から「作曲科」にモグリこんだ訳ですが、入学して判明した事は僕は「作曲家」には向いていない、という事。

「楽譜を書く」のも面倒だし、「楽譜を書いて、他のピアニストの演奏して貰い、演奏が終われば、ステージに呼ばれて、作曲者として挨拶する」というのが、どうにもカッタルイ、と感じたんですね。

加えて「クラシックの作曲家」と言っても、ベートーヴェンやショパン風の曲を作る訳でなく、メロディーも和音もないような「無調」と呼ばれる「現代音楽」である事は条件となります。

実は僕自身は「現代音楽」は結構好き、というか、「日本人が演奏するベートーヴェン等のクラシック」なんぞ、本音としては全然聴きたいと思わないけれども、「日本人が演奏する、日本の現代音楽の作品」の演奏会は相当に好きでした。

但し、例えば日本花子なりの「ピアノリサイタル」等で、バッハやショパン等の「クラシック名曲」に混じって、「委託作品」と称される山田桃太郎先生の新作の「現代音楽」が演奏されると、僕は宜しいとしても、ホールの観客は内心「さっぱり判らない」「退屈だから早く終わらないかな」なんて思ってる訳。

それで漸く山田桃太郎先生の「新作」という「訳の分からない現代音楽」が終わると、観客は社交辞令と「やっと終わってくれた」という「安堵の拍手」が起こり、その「拍手に応えて」山田桃太郎先生が客席からステージに上がり、観客にお辞儀したり、演奏者を拍手で讃えたりし、予め用意された花束が桃太郎先生に贈呈される・・

というお決まりの図式には、僕はどうにも耐えられなくて、「現代音楽の作曲家」を目指すコースから始めから脱落していた次第。

その分と言ってはなんですが、「ピアノ演奏は頑張らねばならない」と思ってた訳ですが、その頃の僕のピアノ演奏は「作曲科の学生にしては巧い」というか「指が回る」ものの、そもそも作曲科の先生から「君はピアノの使い方(奏法や作曲法)がまるでダメだ」と断定されていました。

僕はピアノを始めたのが十歳と遅く、加えて「まともな音楽教育」を受け始めたのも高校二年くらいであり、ピアノも下手だったが、当時の音大に進学しようか、という高校生ならば当然修得している基本的な「音楽理論」や「ソルフェージュ」も全くダメ。

変な所は頭でっかちで「芸術論」みたいな本は読み漁り、訳の分からない人に偉そうに「芸術論」をぶるのは大好きでしたが、専門家の先生のご自宅で、「音大受験」を目指すお弟子さんが集まると、具体的な技術と知識のスキルが低過ぎて「借りてきた猫」というよりは、「塩をかけられたナメクジ」の如くに萎縮してしまう、という惨めさでした。

惨め過ぎで「音楽の道を断念」する、という事にはならなかったのは、僕に「隠れた才能がある事を大先生が見抜いて励ました」からでは全くなく、「田舎の高校生特有の無知による強さ」つまり「今に見ていろ!将来は追い抜かすぞ」という妄想故でありましょう。

その為に只管「どうすれば、この不器用な指が動くようになるのか?」と考えた末、「とにかくハノン全巻六十曲を一日一回弾きとおす」という課題を自分に課した訳です。

勿論、ハノンだけ練習していた訳でなく、チェルニーやバッハ、ソナタを夫々一時間練習し、その他、入試の為の「和声学」の課題をやり、おまけに苦手の「ソルフェージュ」のレッスンにも通い、しかも一応は「高校生」もやる、という訳で矢鱈と忙しい日々でした。

その結果、どうなったか?といえば、「ハノンが上手になった」といいますか、ハノン全ての曲を、どんな調でも、どんなリズム変奏でも弾けるようになりました。

要するに、いざ音大に進学しても「作曲科の学生にしては指が動くね」とピアノの先生から「慰められる」存在になった訳です。というのは、具体的にベートーヴェンなりを弾いても、ロクな演奏ができなかったからです。

ピアノを弾く、というのは、単に指を動かせばいい、というものではない

僕は「ジャズピアニストになりたい!」という夢というか目標を掲げつつも、「クラシックピアノもできればプロになりたい」という「密かな目標」も持っていました。

結局、「公式な場」で「クラシックピアノを演奏」したのは、当時のガールフレンドだった「声楽科の学生」の伴奏を一曲だけさせて貰っただけで、自作の「クラシックピアノ曲」の演奏さえ、自分では弾けずに、ピアノ科の学生にお願いする始末。

ついでに言えば、「作曲科学生」としてのスキルも極めて低くく、目標だった「ジャズピアノ」も「正規のやり方」が全く理解できず、仕方がないので「音楽理論を無視して、どんな音を出しても構わない」と称された「フリー・ジャズ」のライブのみが、唯一の出番でありました。

ちなみにフリー・ジャズの鬼才といわれた山下洋輔氏は「理屈なんか関係なしに、好きな音を、好きにように出しても構わ五」とかなんとか本に書いておられましたが、その数十年後、漸く「ジャズの正規のやり方」が理解できるようになって聴くと、山下さんの演奏というのもは、ちゃんとした音楽理論と、高度な演奏技術によってできている、と理解できます。

なによりも「リズム感」が素晴らしいのですが、そんな事は何にも知らなかった当時の僕は、とにかくなんでも構わないから多くの音を弾けば良い、とばかり、ピアノの鍵盤の上から下までを物凄い勢いで弾く、というか叩きまくっていた訳した。

一緒に演奏した人も何にも分かってなかったし、観客も何も分かってなかったから、「凄い演奏でした!」なんて言われてニンマリしていた訳ですが、僕の演奏なんぞは、「詐欺師」とは言えないにせよ、インチキ極まりなかった次第です。

幸いにも、そういうインチキに自分自身が嫌になり、卒業後、再び一から音楽を学び直し始め、なんとなく音楽の仕事にもありつけた訳ですが、三十歳を越えた頃から、漸く、自分が「学んだ」と思っていた事が根本的には間違っていた、と分かり、奈落の底に真っ逆さまに落ちつつ、再び「一から学び直す」を始め、漸く「これならば、まぁ大丈夫だろう」と思えた時には四十歳になっておりました。

その十年後には、再び「基礎」について疑問が沸き起こり、色々と勉強して現在に至る訳でずか、三十歳の頃に「学んできた事が(海外)では通用しない事」に絶望しつつ、止めてしまわなかったのは僕帰来の「田舎者特有の強さ」もありましょうが、何のかんの言っても、当時は色々と音楽の仕事があり、生活が困窮するという事がなかったからでしょう。

結局の所、まぁ本当の意味で「一人前」になれたのは四十歳の頃ですが、もう二十年早く「一人前」になれていれば、そりゃあ「楽しい人生」が送れた筈。

何か悪い事でもやって刑務所で二十年凄し、「人生を二十年失った」というならば自業自得だと分かりますが、敢えて言えば僕が「二十年遅れて、漸く一人前」になれたのは、「勉強のやり方が判らなかった」つまり「練習すべき課題」の選択を誤ったからだ、といえましょう。

貴重な十代と二十代前半を「ハノンの練習」に充て、といますが、「ハノン」自体が悪い訳ではないが、「ハノンさえ弾いていればピアノが上達する」と心得違いし事で失敗の原因。

タッチを作る、とは「弾き方」の問題ではなく、「音楽理論のスキル」の問題

クラシックピアノの学生ともなれば毎日八時間とか十二時間とかの練習は当たり前ですが、同じ八時間練習を続けても、「上手いピアニスト」と呼ばれたり、いわゆる「入学が難しい音大や入選が難しいコンクール」に通る人もいれば、通らない「下手な人」もいます。

そこで「才能が違う」という話になる訳ですが、では一体「才能」とは何ぞや?となるとよく判らないのですが、「良い(或いは巧い)ピアニスト」や「才能がある人」は、何よりも「楽譜の理解」がダメな人よりも深いと言えます。

「楽譜の理解」といえば、大雑把にいえば「楽曲分析」となりますが、この「楽曲分析」自体にインチキ本が多く、極めて、乱暴に、かつ表層しか読めない人が多い。

例えば「ドミナントの和音がトニックに進行する」なんて事すら知らない人は論外として、それ位は知っていたり、楽譜に和音分析を書ける人はそこそこおられるでしょう。

問題は「ドミナントがトニックに進行する」として、ならば「どういう音が弾くべきか」という事を考えない人が大多数なんですね。

「あたしゃあ、真面目な性格なので、楽譜に忠実に弾きます」なんて言って、全ての音を同じ調子で叩く人がいたりしますが、かと言って、勝手に変えて弾くのもダメ。

実は「楽譜の上」では同じ8分音符でも、実際に長さは全て違います。それは好きなように変えていい、という訳では全くなく、楽譜を分析する事で、それぞれの音符の実際の長さの違い、強さの違い等が見えて来ます。

そして「こう鳴らさねばならない」という地図ができて来る訳で、その地図の通りに実際に鍵盤をコントロールして弾けるように目指すのが「練習」です。

実は「ハノン」も機会的に均等に弾けばいい、という事は全くなく、リズムや和音ないでの解決等に留意して「細かく弾き分ける」べきですが、さすがに「ハノン」の場合、音の変化が乏しい。

その点、例えば「バッハのインベンション」の場合、二声のハ長調「ドレミファレミド/ソー」のフレーズについても、全ての音符の繋がりや、長さ、強さを変えて弾かねば「音楽」になりません。

にも関わらず「ハノン式」に単に弾くだけ、という人が殆どですが、これは「バッハ風のハノン」に過ぎず、いつまでたっても「バッハが弾けるようになる」訳ではなく、時間というか人生の無駄。

ペタリングについては、右のペタルを踏みっぱなしの人が少なくないけれども、実は、こうなってしまうのは、「リズム」についての理解が欠如しているからです。

ペタルなんてものは、物凄く細かい踏みかえが必要ですが、それらについては「オンビート」と「オフビート」の感覚が必要。日本人は基本的には「音痴」なので「オンビート」の感覚しかない人が少なくないから、平気でペタルを踏みっぱなしにする訳ですね。

そして、これらのペダリングの「練習」も「ハノン」ではできません。

結局の所、「ハノン」で「練習」できる事は「ピアノ奏法」の中の極めて狭い範囲。
他に練習すべき事が山ほどある訳。むしろ「ハノン的に指を動かすだけの練習」はやればやるほど「ピアノが下手になる」ともいえましょう。




























タグ:ピアノ練習
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